2012年5月11日金曜日

全面的徹底改造計画その壱


・イスラエル ホロコースト追悼式典
4月20日 6時34分

ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストの犠牲者を追悼する式典がイスラエルで行われ、ネタニヤフ首相は、対立するイランの核開発を阻止できなければ、ホロコーストの悲劇が繰り返されるおそれがあるという強い危機感を示しました。

イスラエルでは、ナチス・ドイツによっておよそ600万人のユダヤ人が大量虐殺されたホロコーストの犠牲者を追悼する式典が18日から2日間に渡って各地で開かれました。

このうち、エルサレムでは、19日午前10時にサイレンの音を合図に一斉に黙とうが行われたほか、ホロコーストの犠牲者の慰霊碑に強制収容所を生き延びたお年寄りなどが花輪を手向けました。

18日夜に行われた式典で、イスラエルのネタニヤフ首相は「イランの脅威を誇張として受け流す者はホロコーストの教訓を何一つ学んでいない」と述べ、対立するイランの核開発を阻止できなければ、ホロコーストの悲劇が繰り返されるおそれがあるという強い危機感を示しました。

イランのアフマディネジャド大統領は、ホロコーストの事実を否定する一方で、核開発を続けています。これに対し、イスラエル側は、イランの核開発は軍事目的で国の存亡に関わる危機だと位置づけ、先制攻撃も辞さない構えをみせています。

 

 

 


自らをユダヤ人だと称してはいるが、その実マモンの下僕である者たちが今もなお神の前に恥じ入ることもなくこう嘯いている。

敵が我が同胞六百万人の命を奪ったのだ、と

では私が神に代わって問おう。

お前たちは彼らの命を誰にいくらで売渡し、いままた多くの無辜の人々の命を誰にいくらで売ろうとしているのであるか?

彼らのi命と思いの数を測ることもなく、しかしお前たちは自分たちの欲望と彼らの命を秤にかけ、問答無用に彼らの犠牲をこそ望み、何処かへ売り渡したではないか?

お前たち毒蛇のように狡い商人は、血の繋がった同胞をさえ無慈悲に売り物とし、さらには自らの売り渡した者の数をごまかし高く売りつけ、その上自分の手が売り渡された者の血で真っ赤に汚れていることさえ隠し通せると思っている。

お前たち巧みな口先と毒ある牙をもつ者は、それを罪とは思わず、それどころかすべてを見ていた神をも欺き続けられると驕り高ぶっている。

しかし、知れ!

もはやお前たちの罪は天まで積み上がり、いまや神の怒りの酒槽は激しく波打っている。

お前たち地にはびこる偽の子らを打つための、やがて誠の人の子らがやってくる。

そこでお前たちの罪は隠しきれなく暴き出され、欲望と血に穢れた偽りの王国ともども滅び去る。

私は今ここに告げた。

時は近い。

 

 

 

 

 

 

1.3 私たちはいつからホロコーストについて知るようになったのか?
[犠牲者600万人という数字の起源]

R(ルドルフ):もちろん、ホロコーストに関する私の定義は、数多くの定義の中の一つにすぎませんし、実際、ホロコーストにまつわる諸事件は各人各様さまざまな角度から眺められていますので、共通の舞台に立つことが難しくなっています。

このことは、次のテーマ、すなわち、「世界がはじめてホロコーストのことを耳にしたのはいつであったのか?」にも、とくにあてはまります。

これに対する回答は、ホロコーストという用語の定義にかかっています。

ですから、ここでは、問題を多角的に考察するために、ホロコーストに関する定義を拡張することにします。

そこで、次のように問題提起することにします。

中央ヨーロッパと東ヨーロッパの600万人ほどのユダヤ人が死の恐怖に脅かされている、もしくはすでに殺されているという事実を世界がはじめって知ったのはいつであったのか? 

この質問に誰か回答できますでしょうか

L(聴衆):世界はドイツ占領下の地域で進行していたことを、終戦以前に、ある程度は知っていたと思いますが、犯罪の詳細や規模については知らなかったと思います。

R:では、私たちは、600万人という犠牲者の数字については、いつから話題にしていたのでしょうか?

L:この問題に光をあてたのは1946年のニュルンベルク裁判のときがはじめてだと思います。

R:それが普通の見解です。ドイツ占領下の地域で進行していることを調査できるようになったのは戦後になってからであるとお考えであれば、この見解は合理的に思われます。

しかし、もっと深く考察してみましょう。

ニュルンベルク裁判記録を分析すれば、ユダヤ人犠牲者600万人という数字は、人口調査による統計学的証拠にも、犯罪にまつわる物的証拠の調査結果にももとづいておらず、たんに、二人のドイツSS官僚の伝聞証言にもとづいていることがわかります。

そのうちの一つ、ヴィルヘルム・ヘットルによる証言は、文書証言としてだけ提出されています。
もう一つの、ディター・ヴィスリセニイの証言は、法廷での証人証言というかたちでした。

しかし、ヴィスリセニイは反対尋問を受けていません。

2012年5月10日木曜日

YOROZU PLANNING よろづ企画


 目が覚めてみると、薄ら明るくなっており、雪も全く見当たらなくなっている。程なくして6時26分、停車したのがテネシー州メンフィスである。

 両終点であるシカゴとニューオリンズの行程のほぼ中間にあり、また沿線でも最大の都市となるメンフィス駅では約25分の停車予定である。その間に機関車の燃料を補給しているもよう。メンフィス駅は、現在ではこの「シティ・オブ・ニューオリンズ号」下り59列車(早朝発着)、上り58列車(深夜発着)と1日1往復のみの停車となっており、町の規模に比べてシンプルな造りとなっている。発券事務所はあるものの改札口などはない。降りて列車の様子を見てみると、後方の座席車ではこれから南に向かうために乗車する人の列が数十人ほどできて いた。

2012年5月8日火曜日

バックナンバー(2004年) [ MONTANA ]


新モンタナ州知事が誕生

 11月2日のアメリカ大統領選挙と時を同じくして、モンタナ州でも新知事選挙がありました。今回当選したのは、モンタナ州では16年ぶりとなる民主党知事ブライアン・シュワイツァー氏です。シュワイツァー氏と副知事に選ばれたジョン・ボーリンガー氏は2005年1月3日の就任式から職務に就く予定です。

モス・マンションでのクリスマス

開催期間 2004年11月14日~2005年1月6日
「クリスマス・アット・ザ・モス・マンション」は、歴史ある建造物であるモス・マンションでの、毎年恒例のイベントです。開催中はマンションツアーが実施され、各部屋ごとにデコレーションされたクリスマスツリーを見ることができます。尚、サンクス・ギビングの期間中及び、クリスマス、正月は閉館しています。

-お問合せ-
Moss Mansion
914Division, Billings, MT 59101
【電話番号】406-256-5100
【HPアドレス】
【E-メール】mossmansiobr />-行き方-
ビリングス市内のダウンタウンにあるモス・マンションにて開催されます。
インターステート90号を450番出口で降り、サード・アベニュー・ノースに入り直進。この道は一方通行です。

モンタナ・トラベルセミナー

 この度当事務所では、「モンタナ・トラベルセミナー」を開催致します。昨年に引き続き、イエローストーン・グレーシャー・アドベンチャー株)のスティーブ・ブラウン社長を迎え「四季ごとのモンタナツアー」と題し日本語で春夏秋冬、四季折々のモンタナ向けツアーの作り方の講演を行います。
 アメリカ北西部カナダとの国境に位置するモンタナは西部をロッキー山脈が縦断、2つの国立公園を有する自然豊かな場所です。アウトドア・アクティビティはもちろん野生動物観察、アメリカのナショナルチームが合宿を行うほど良質の雪質を誇るスキー場、ネイティブアメリカンの祭りパウワウや、ロデオなど他州では体験することのできないアメリカの素晴らしい顔を日本の皆様にお伝えできる良い機会になればと考えております。

-場所と日時-
● 12月8日(水)午前10時~午後12時
在福岡アメリカ領事館【福岡市中央区大掘り2丁目5-26 TEL:092-751-9331】
● 12月9日(木)午前10時~午後12時
ハービス大阪内ハービスPLAZA6階貸会議室2号室【大阪市北区梅田2-5-25 ハービスPLAZA6階 TEL:06-6343-7770】
● 12月10日(金) 午前10時~午後12時
都道府県会館408号室【東京都千代田区平河町2-6-3 TEL:03-5212-9000】

2012年5月6日日曜日

イラク - Wikipedia


イラク共和国
الجمهورية العراقية (アラビア語)
كۆماری عێراق (クルド語)
国の標語: الله أكبر (allahu akbar)
(アラビア語: 神は偉大なり)
国歌: 我が祖国
  1. ^ 4つのクルド地方では第一公用語
  2. ^ クルド人自治区の首府はアルビール
  3. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
  • 国歌: クルド人はEy Reqîb(守護者よ)を唄う

イラク共和国(イラクきょうわこく)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-'Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-'Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-'Irāq al-'Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-'Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。

[編集] メソポタミア

現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。イラクのテル・アル・リマー遺跡からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。

[編集] イスラム帝国

西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都 を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

[編集] オスマン帝国

1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。

[編集] イギリス帝国

19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーヴル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。

一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のアミール(首長)のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、大戦以前の1899年に既にイギリスの保護国となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、1961年に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。

[編集] 王政・独裁・戦争

ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成したが、同年7月14日、カーシム准将とアーリフ大佐率いる自由将校団のクーデターによって倒され、共和制となった[1]。そのカーシム政権も1963年にバアス党将校団のクーデタで倒れる。かくしてバアス党が権力を握り、1968年にアフマド・ハサン・アル=バクル、続いて1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任した。

1984年にイラクはアメリカと国交を回復した。アメリカは、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時のアメリカ政府の、レーガン政権もこれを黙認した。

1990年に石油資源を求め隣国のクウェートに侵攻、多くの日本人が人質になった、国連の決定による1991年の湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための経済制裁によって市民は圧政に喘いだ(イラク武装解除問題)。この経済制裁によって、イラクのインフラは壊滅的な打撃を受け「湾岸危機以後、イラクにおける児童死亡率は世界で最も高く、誕生した幼児の23%は未熟児で、5歳児の4人に1人が栄養失調になり、国民の41%だけが飲料水を正常に得ており、83%の学校が修繕を必要としてる」と1999年3月に国際連合安全保障理事会に任命された委員会は説明した。後にコフィ・アナンは「10年間の制裁の結果はその効果だけでなく、� ��の範囲と厳しさで、罪の無い市民を自国の政府からだけでなく、国際的共同体の行動によって往々にして犠牲になることで、深刻な疑念を持った。包括的で厳しい経済制裁が独裁的体制に向けられている場合、悲劇的なことに一般的に苦しむのは制裁の発動対象になった行為を行った政治的エリートではなく、国民である」とした。

サッダーム政権当時の政治は、革命指導評議会 (RCC) が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる一院制のイラク国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。

サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所および控訴裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。陪審制を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別法廷の管轄となった� �また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命指導法廷が裁いた。

[編集] フセイン政権崩壊と新政府

2003年3月、国連決議に反してフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張するアメリカが主導し、多国籍軍がイラクに攻め込みイラク戦争が勃発しフセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束されたが、大量破壊兵器は結局見つからなかった。

2012年5月4日金曜日

エタノールと移民(2006年秋 アメリカとメキシコ) /YCASTER 2.0:伊藤洋一公式サイト


<エタノールと移民ー国境の北と南で-Cyberchat>

 2007年1月1日の午後10時からNHKBS1で放送された「地球特派員スペシャル」の為に、2006年11月の下旬にアメリカの中西部とメキシコのアメリカ国境沿いを取材しました。

 取材のコンセプトは、いろいろな指標で見た世界地図の歪みを手がかりに、経済の成長という大きな枠組みの中で「競争と格差」という問題を抱える今の世界を「4人の特派員」が各地を取材し、のちにスタジオで討論するというもの。4人とは、私と榊原英資、姜尚中、江川紹子各氏。それぞれの地域を受け持ち、私はアメリカとメキシコ。

 アメリカには4年間いましたし、メキシコにも行ったことがありますが、今回の取材はいずれも両国のこれまで見たことがない地域が対象で、私としても非常に勉強になった。アイオワ州のトウモロコシ畑の中を走り、そしてエタノール工場を見学し、GMの経営者よりもよほど勉強家、革新家のアメリカの農家の経営者(この表現が正しいと思います)を取材し、取引所を見て、そしてメキシコサイドから危険を承知でアメリカへの密入国をトライする人々を取材し、といった形。

 「エタノール」は2006年の一般教書演説でブッシュが石油依存症のアメリカがエネルギーの自立性確保を目的に具体的に名前を挙げたことから急激に注目された産業だが、アメリカでは主にトウモロコシから生産する。ブラジルはサトウキビからの生産。エタノールはあらゆる植物(草も可能)から作れ、例えば日本では米からの生産も可能。実際にするかどうかは別にして。

 のちの文章にも書きましたが、いろいろ面白いことが起きている。例えばアイオワ州はこれまでアメリカでもっともトウモロコシを他州や海外に輸出(?)してきた州ですが、今は州内に次々とエタノール工場が出来て州内消費するために、「今後は他の州から輸入(?)しなければならなくなるとか、トウモロコシに対する燃料としての、また食糧としての需要が増えたこと、加えてエタノール工場の増加によって需要が高まったことによりアイオワ州の農家が所有する農地の価格が過去10年で10倍に上昇した、と言ったこと。

 アメリカの自動車産業の苦境は言うまでもありませんが、その行く先(工場の移転先)の一つはメキシコ。しかし工場がアメリカから移ってきているメキシコでは依然として職場不足と低賃金がはびこっていて、聞けばびっくりするほどの数の不法移民希望者が徒歩での国境越えを試み、その三分の一がそれに成功する現実。三分の二は連れ戻されてもまたそれを試みる。

 ブッシュ大統領はその波を止めようとするが、しかし一方のアメリカには「移民は必要」と、犯罪を起こさない一定期間きちんと働いた人には居住権を与えようと言う動きがある。つまり北と南の両方で、民を北に移動させる圧力が存在するという動かし難い現実。

 そういう現実を目に出来た事は非常に鮮明な記憶として残った。移民が必要なアメリカの産業は、農業(農場の農作業に従事)、建設業(現場労働者)、各種サービス業など。なにせアメリカではメキシコの10倍の労働賃金がもらえる。そしてメキシコには、アメリカの一稼ぎして家を建てた連中が各村に何人となく居る。成功体験が転がっている限り、貧しいメキシコの人々は北を目指す。中南米の人々も、メキシコを経由してアメリカを目指す。

 アメリカとメキシコの国境に実際に行きました。下に写真があるので、見て頂きたいのですが、国境がない日本の人間としては考えさせることが多かった。番組は何回も再放送されていますので、見て頂ければ良いと思います。私のところにはDVDもあります。

 以下は、私が取材中に残した文章です。day by day から採録しました。


2006年11月18日(土曜日)

 (24:27)ホントにびっくりしました。皆で食事を済ませて打ち合わせをし、ちょっと一寝入りした後に目を覚ましたら突然ケイタイ電話が。当地夜の12時ちょっと過ぎの日曜日に入ったところ。誰だろうと思って電話を取ったら番号が非表示。聞こえてきたのはインド英語で、パトナのラマヌジャン数学アカデミーの経営者であるアマンド・クマールさんでした。

 彼とは六月にインドで別れたきりでしたが、今回電話してきたのは彼が日本に来るとかいう話ではなくて、「あの時のビデオに出ていたIT会社の社長の名前はなんていったっけ」と。顔は直ぐに思い出しましたが、名前が思い出せなくて「調べてメールする」と返事。彼とは一度メールを交換していますから、メーラーで「kumar」で検索すれば分かる。

 まもなく思い出して、「ビピン・トヤギ」さんでした。ははは、彼とは6月にインドから帰ってきて直ぐに林さんやドヴァルさんと一緒に東京で西麻布のアイスバーで時間を過ごしたことを思い出した。ちょっとした偶然です。

 ところで、飛行機の中のアナウンスメントから分かっていたことですが、デトロイトやその周辺は東京から来た私にとっては寒い。到着時が摂氏7度。しかし、ここに既に数日活動してきた4人の方々にとっては、「今日は風もないし暖かい」そうで、こちとら「そうですか」と言うしかない。夜は寒そう。

 うーん、アメリカの中西部に来たのは90年代の終わりに来たシカゴ以来です。確かあのときは冬ではなかった。デトロイトの空港で見かけた右下の写真は、下に広告主として「フォード」と出ていますが、一つアメリカが目指している道(road)です。

It is not just a interstate
It is a road to the future.
 と書いてある。「interstate」というのは州際ということで、アメリカの主要道路を指しますが、それが「未来への道」でもあるというのはどういうことか。

 それは「E・85」がエタノール85%の割合でガソリンと混ぜ合わせた「エタノール燃料」を指すからです。今年のブッシュの年頭教書の中にアメリカのエナジー・セービング施策の大きな柱として名前が挙がったのは「エタノール燃料」。下にトウモロコシの絵が見えるのは、アメリカではエタノールをトウモロコシから取っていることを示している。もう一つのエタノール大国であるブラジルはそれを主にサトウキビから作る。

 ひょんなところからデトロイトの空港で知り合ったバイオ関連の博士号を持つ内ヶ崎さんによると、「エタノールは植物だったらなにからでも出来る」そうで、お米からも出来るそうです。アメリカは草からエタノールを作り出す研究もしているという。まあでも日本で「米からエタノールを作る」とはなかなか言えないでしょうな。一番効率が良いのはサトウキビだそうです。

 この「E・85」はアメリカで注目されているのですが、問題がある。それは10月にニューヨークにいたときに自動車アナリストから聞いたのですが、全米のスタンドの約0.4%でしか扱っていないこと。このアナリスト(ニューヨーク在住)が「E・85」を入れようとしたら、ワシントンDCまでいかないと行けないというのです。だから実用化はまだずっと先。

 夕食はホテルでしましたが、リスク分散思考から5人で皆が違うものを頼んで、それを小皿をもらって少しずつ分配して一挙に5食分トライしようと。そうすれば、それぞれの何か好きなものがあるだろうと。

 当然予想したが、相変わらず量が多い。そして我々の周りを歩いているアメリカ人を見ると、凄く太い。だからウェートレスの女性に敢えて、「いつも思うのだが、食事の量が多すぎると思うのだが、アメリカの人達はこれを全部食べるのか?」と聞いたのです。

 そしたら彼女曰く、「私も多いと思う。でも皆が期待するからこうなった。でも食べきれないから、結構な人が家に持ち帰るんです.....」と。そりゃそうだろう。そうした方がいい。しかしそれでもやはり食べるから、男性も女性もすごくおなかが太く大きい人が多い。

 見ているとアメリカ人の食べ方も悪い。私の飛行機の隣に座ったアメリカ人はデトロイト在住と言っていましたが、見ていたらサラダをほとんど食べない。そして出てきた肉はきれに食べていた。私は逆でしたね。ブッシュが国境に建設しているフェンスについてどう思うかと聞いたら、「That is not a good idea.」と言って、「それをメキシコの教育費に回したら良い」と。まあでもそれも迂遠な話です。

 私を入れて5人。なかなかの強者揃いです。夕食の時「どんな取材経験があるか」で盛り上がった。初日にして既にハプニングもあり、これからが楽しみ。目的はここに項目で示したようなことですかね。


2006年11月19日(日曜日)

 (23:27)宿泊していたミシガン州ランシングからアイオワ州のデモインに移動してきています。日本から見るとあまり違わないように思えるが、時差が一時間ある。ちょっと戸惑いますね。そのたびに時計を戻したり、進ませたり。面倒なので、PCの時計は日本時間のままです。しかしケイタイの時間は目覚ましに使う関係があるから、ほっておけない。

 それにしてもアメリカは広い。トウモロコシ畑の中を走ったのですが、前も後ろも道がまっすぐ延びているだけ。本当にまっすぐなのです。ニューヨークの近郊はこういうことはなかった。もう収穫は終わって土が掘り起こされた土地が延々と続く。こんなにゆっくりとアメリカの農村地帯を見たのは初めてだと思う。

 アメリカの新聞は面白い。地方色がメチャ強いのです。デトロイトとかランシングに行くと開けば自動車の記事が山のように載っている。デモインでは一面トップの中央がトウモロコシの絵ですからね。この新聞をもって一軒の農家を訪ねましたが、面白かった。そこに近所のおじちゃんも遊びに来ていて、最近のアメリカのトウモロコシ農家の実情を聞きました。

 私が驚いたのは、アメリカの都市における住宅価格の上昇や、一方でのその沈静化が一般的に言われている。しかし私の感覚ではニューヨークなどでは住宅価格、土地価格の上昇はまだ続いているし、アイオワの農家に聞いたらトウモロコシ価格の上昇に歩調を合わせるようにここの農地も過去10年で2倍になったという。コンピューターでシカゴの相場を見ながら自分の収穫分の売り時を考える農家の人々。

 日本は米で先物相場を禁じていますからそういう光景はないのですが、世界で一番最初に商品相場の市場を持ったのは日本。大阪の堂島です。それを考えると、ちょっと日本の伝統がアメリカで今イキイキと生きている感じがする。


2006年11月20日(月曜日)

2012年5月3日木曜日

マーティン・ヘルマン コンピュータ偉人伝 ちえの和WEBページ


2007/11/12 掲載

インターネットという新しいネットワークの将来を見通していた民間研究者

公開鍵暗号は、民間のどちらかというとアウトロー研究者だったマーティン・ヘルマンと、ホイットフィールド・ディフィー、それにラルフ・マークルによって発明された。人類が暗号を使い出してからずっと続いた暗号の常識が、この3人によってくつがえされたのだが、その引き金となったのが、人類が始めようとしていた新しいタイプのコミュニケーションだった。それは電子的な通信手段によって、面識のない相手とものを売り買いしたり、情報交換しあったりするというものだった。魅力的だが、ちょっと考えれば非常に危険な行為であることは明らかだった。インターネットがまだARPAネットと呼ばれていた頃、そのような未来を鮮明に予想していた人たちがいた。その人たちは、電子的なネットワークの威力を正しく評価し� �いた。そしてそのような世界ではまったく新しい暗号システムが必要になることも・・

彼らは明確な目標を持っていた

公開鍵暗号を発明した3人はいずれも、来るべきネットワーク時代で、お互いに顔を合わすことなく見ず知らずの相手と安全な通信を行うにはどうしたらいいのか、という明確な目標を持っていた。逆に、その当時暗号世界を牛耳っていた人たちにとっては、外交や軍事面でのあくまで組織内部での通信しか考えていなかったので、どこの誰とも知れない相手と暗号通信をするなどという発想はばかげたたわごとにすぎなかっただろうし、そんなことは思いつきもしなかっただろう。そして、当然の結果として新しいコミュニケーションを見据えていた3人が、新しい暗号を発明した。この項ではマーティン・ヘルマンの立場から見てみたい。

2012年5月1日火曜日

三環系抗うつ薬の発見と気分安定薬のリチウム


三環系抗うつ薬の発見と気分安定薬のリチウム

うつ病の抑うつ感や気分の落ち込みを改善する『抗うつ薬』には、『三環系抗うつ薬・四環系抗うつ薬・SSRI・SNRI』など色々な種類がありますが、最も早い時期に開発された抗うつ薬はMAO阻害薬と三環系抗うつ薬でした。1951年にアメリカのニュージャージー州にあるホフマン・ラ・ロシュ社が、結核の治療薬(抗結核薬)としてヒドラジン化合物のイソニアジドとイプロニアジドを開発しました。ヒドラジンは元々、第二次世界大戦でドイツのV-2ロケットの燃料に用いられた物質で『爆発性・毒性』を有していますが、化学変化を起こさせることで各種の医薬品を合成することができます。