- イラク共和国
- الجمهورية العراقية (アラビア語)
كۆماری عێراق (クルド語) - 国の標語: الله أكبر (allahu akbar)
(アラビア語: 神は偉大なり) - 国歌: 我が祖国
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- ^ 4つのクルド地方では第一公用語
- ^ クルド人自治区の首府はアルビール
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- 国歌: クルド人はEy Reqîb(守護者よ)を唄う
イラク共和国(イラクきょうわこく)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。
正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-'Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-'Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。
公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。
日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。
イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-'Irāq al-'Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-'Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
詳細は「イラクの歴史」を参照
[編集] メソポタミア
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。
メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。イラクのテル・アル・リマー遺跡からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。
[編集] イスラム帝国
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都 を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
[編集] オスマン帝国
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。
[編集] イギリス帝国
19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーヴル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。
一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のアミール(首長)のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、大戦以前の1899年に既にイギリスの保護国となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、1961年に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。
[編集] 王政・独裁・戦争
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成したが、同年7月14日、カーシム准将とアーリフ大佐率いる自由将校団のクーデターによって倒され、共和制となった[1]。そのカーシム政権も1963年にバアス党将校団のクーデタで倒れる。かくしてバアス党が権力を握り、1968年にアフマド・ハサン・アル=バクル、続いて1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任した。
1984年にイラクはアメリカと国交を回復した。アメリカは、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時のアメリカ政府の、レーガン政権もこれを黙認した。
1990年に石油資源を求め隣国のクウェートに侵攻、多くの日本人が人質になった、国連の決定による1991年の湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための経済制裁によって市民は圧政に喘いだ(イラク武装解除問題)。この経済制裁によって、イラクのインフラは壊滅的な打撃を受け「湾岸危機以後、イラクにおける児童死亡率は世界で最も高く、誕生した幼児の23%は未熟児で、5歳児の4人に1人が栄養失調になり、国民の41%だけが飲料水を正常に得ており、83%の学校が修繕を必要としてる」と1999年3月に国際連合安全保障理事会に任命された委員会は説明した。後にコフィ・アナンは「10年間の制裁の結果はその効果だけでなく、� ��の範囲と厳しさで、罪の無い市民を自国の政府からだけでなく、国際的共同体の行動によって往々にして犠牲になることで、深刻な疑念を持った。包括的で厳しい経済制裁が独裁的体制に向けられている場合、悲劇的なことに一般的に苦しむのは制裁の発動対象になった行為を行った政治的エリートではなく、国民である」とした。
サッダーム政権当時の政治は、革命指導評議会 (RCC) が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる一院制のイラク国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。
サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所および控訴裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。陪審制を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別法廷の管轄となった� �また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命指導法廷が裁いた。
[編集] フセイン政権崩壊と新政府
2003年3月、国連決議に反してフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張するアメリカが主導し、多国籍軍がイラクに攻め込みイラク戦争が勃発しフセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束されたが、大量破壊兵器は結局見つからなかった。
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その後アメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って連合国暫定当局(CPA)によって統治されていたが、2004年6月28日をもって暫定政権に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し[2]、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。この議会で準備が進められた移行政府は4月28日に発足して新憲法草案の政策に取り掛かり、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された[2]。承認された新憲法に基づいて、12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙を行った[2]。2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足した[2]。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。
しかし、政権を巡りスンニ派とシーア派とクルド人勢力と3大勢力の対立があり争いが発生し、実質は内戦状態・無政府状態であるとされ、1日あたり約60人のイラク人が犠牲になったと言われており、自爆テロがあとを絶たず、ついには10万人近くまで犠牲者が増加してしまった。その原因は、恐怖政治で宗派対立を抑え込んでいたフセインをアメリカが打倒した事が一因である。トルコのギュル首相はイラク戦争は泥沼化すると予想しており、イラクを『パンドラの箱』と揶揄していた。
2007年以降は治安状況も改善し、外国軍の撤退も行われてきている。2010年8月7日~8日にかけて、南部のバスラなどの全国各地でテロが相次ぎ、60人が死亡し、185人が負傷した。8月25日、首都バグダッド、北部のキルクーク、モスル、東部のクート、中部のカルバラ、バグバなど10カ所以上で爆弾攻撃が発生した。標的にされたのは主に治安部隊、警察署などで62人が死亡、250人以上が負傷。17日にもバグダッドで自爆テロがあり、59人が死亡、100人以上が負傷している。5ヶ月以上にも及ぶ政治的空白にともなう治安の不安定が露呈した形となった。マリキ首相は、一連の事件に対して国際テロ組織アルカイダとフセイン前政権を支えた旧バアス党を批判した。
2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊の撤退が行われ、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍部隊も2011年末に撤退した。2011年12月14日、アメリカ合衆国のオバマ大統領は、ノースカロライナ州フォートブラッグ陸軍基地でイラクからの帰還兵を前に「イラク駐留米軍の撤退」を宣言した[3][4][5]。
2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりある。[6]。
イラク憲法は、2005年10月15日の国民投票での承認により成立した。
国家元首の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派(スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。
大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。 大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒東経044度15分22秒に位置している。
行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名(首相・副首相を除く)。
憲法は、立法府である国会について両院制を定めるが、上院にあたる連邦議会は未成立。下院である代議院は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年12月15日に行われ、第2回総選挙は2010年3月7日に行われた。しかし、世俗派の政党連合「イラク国民運動」を構成するイラク合意戦線は2月20日総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである[7]。 後に合意戦線は、ボイコットを撤回している。
2010年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。
- 法治国家連合‐89(マーリキー首相の会派)
- クルディスタン同盟‐43
- イラク国民連合 ‐70
- イラク国民運動‐91(アッラーウィー元首相の世俗会派)
- イラク統一同盟‐4
- イラク合意‐6
2010年3月に第2回議会選挙が行われて、アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党(91議席)となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった(89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。2010年11月に議会は、タラバーニーを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し[2]、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した[2]。
[編集] 司法
[編集] 外交
イラクと中東諸国との関係は多様である。
1990年に入ってイラクは、1980年から1988年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。イラク戦争でフセイン政権が崩壊すると、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けることになる。
エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダードで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。
ところがイラクとエジプトの関係は、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアが深く関与したレバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアの態度を貫いたキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。1999年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。
イラクは中東戦争に際しては1948年、1967年、1973年に参戦するなどイスラエル問題について強硬な態度をとることが多かった。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のレーガン米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後はクウェート侵攻へのアラブ各国からの批判をそらす狙いもあって、イスラエルへの全面的な非難を度々唱した。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルによって攻撃したこともあった 。
アメリカの侵攻と占領政策の結果成立したという背景もあり、新生イラク政府は対外的には米国の傀儡的な印象を強く与えていたが、近年は米国が敵視するイランと協調関係を模索するなど、アメリカの対外政策と離れた次元でイラク独自の外交を展開する部分も孕んでいる。
詳細は「イラク治安部隊」を参照
2008年でイラク人の治安部隊が約60万。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。
クルド地方3県(エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県(ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県)及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会(スンニ派)が治安維持に貢献しているとされる。
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。
イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境(北緯33度22分、東経38度47分)である。北端はトルコとの国境(北緯37度23分、東経42度47分)で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口(北緯29度53分、東経48度39分)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境(北緯29度3分、東経46度25分)の一部である。
株式市場は1929年に落ちる
イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。二本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り� ��ペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400mから500m程度である。
イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のハジ・イブラヒーム山 (3600m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。
このような地形が形成されたのは、イラクの国土がアラビアプレートとユーラシアプレートにまたがっているからである。イラン国境に沿いペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈は、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して圧縮し、褶曲山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰々が存在する。
ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。
ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びるハンマール湖が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ(沼沢地アラブ)と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。
イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジなど複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400kmを上回り、4本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジであり、480kmに達する。
イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。
世界最高気温を1921年に記録したバスラ(58.8度)は30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5度(1月)、34.2度(7月)。年降水量は僅かに140mmである。
[編集] 動物
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。
鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ(水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。
[編集] 植物
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。
ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。
ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。
[編集] 地方行政区画
詳細は「イラクの地方行政区画」を参照
18の県(「州」と呼ぶこともある)に分かれる。
- バグダード県 - 県都バグダード
- サラーフッディーン県 - 県都ティクリート
- ディヤーラー県 - 県都バクーバ(「バゥクーバ」とも)
- ワーシト県 - 県都クート
- マイサーン県 - 県都アマーラ
- バスラ県 - 県都バスラ
- ジーカール県 - 県都ナーシリーヤ
- ムサンナー県 - 県都サマーワ
- カーディーシーヤ県 - 県都ディーワーニーヤ
- バービル県 - 県都ヒッラ
- カルバラー県 - 県都カルバラー
- ナジャフ県 - 県都ナジャフ
- アンバール県 - 県都ラマーディー
- ニーナワー県 - 県都モースル(「マウシル」とも)
- ドホーク県 - 県都ドホーク
- アルビール県 - 県都アルビール
- キルクーク県 - 県都キルクーク
- スレイマニヤ県 - 県都スレイマニヤ
IMFの統計によると、2010年のイラクのGDPは841億ドル(約7兆円)であり[8]、岐阜県とほぼ同じ経済規模である[9]。
通貨はイラク侵攻後のイラク暫定統治機構(CPA)統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。[10]
イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。
1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。
第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50%がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。
1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は石油である。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。
イラクの原油生産量、単位:万トン (United Nations Statistical Yearbook)
- 1927年 - 4.5(イラクにおける石油の発見)
- 1930年 - 12.1
- 1938年 - 429.8
- 1940年 - 251.4
- 1950年 - 658.4(石油の利益の1/2がイラクに還元)
- 1960年 - 4,746.7
- 1970年 - 7,645.7
- 1972年 - 7,112.5(油田と付帯施設を国有化)
- 1975年 - 11,116.8
- 1986年 - 8265.0(イラン・イラク戦争による被害)
- 1990年 - 10,064.0
- 1993年 - 3,230.0(湾岸戦争による被害)
- 1997年 - 5,650.0
- 2003年 - 19,000.0(イラク戦争終結時)
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。
1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為(湾岸戦争)で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。
1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。[11]。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。
[編集] 農業
世界食糧計画(WFP)の統計(2003年)によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。
農業従事者の割合は低く、全国民の2.2%にあたる62万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。
同2005年の統計によると、主要穀物では小麦(220万トン)、次いで大麦(130万トン)の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13万トンと少ない。
いくつかの偉大なアメリカ人は誰を意味していた
野菜・果実ではトマト(100万トン)、ぶどう(33万トン)が顕著だ。商品作物としてはナツメヤシ(87万トン)が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6%を占める。畜産業では、ヤギ(165万頭)、ウシ(150万頭)が主力である。
ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバクダードのナツメヤシが有力。バスラには800万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バクダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。
イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバクダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。
[編集] 工業
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する(2002年時点で1.6%)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。
製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。
[編集] エネルギー
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90%が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000本に過ぎないと推定。 2003年時点の総発電量295億kWhの98.5%は石油による火力発電でまかなっている。残りの1.5%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。
イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。
[編集] 交通
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設されている。
一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台(うち65万台が乗用車)に留まる。舗装道路の総延長距離も8400kmに留まる。
[編集] 貿易
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9%、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1%であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。
輸出品目別では、原油83.9%、石油(原料)8.0%、食品5.0%、石油化学製品1.0%である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1%、基礎的な工業製品16.1%、食品5.0%、化学工業製品1.0%。
貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6%、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6%、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。
イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1%と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9%と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。
[編集] 民族
国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地� �はその他の民族が暮らしていることになる。
かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフと呼ばれる町に定住している。
イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。
マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。
南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。
また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。
[編集] 言語
アラビア語、クルド語が公用語である。その他アルメニア語や現代アラム語(アッシリア語)なども少数ながら使われている。
書き言葉としてのアラビア語(フスハー)は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからだ。しかし、話し言葉としてのアラビア語(アーンミーヤ)は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバクダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。
[編集] 教育
イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備過程を終了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。
イスラームが国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、マンダ教である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はアラブ人シーア派の50%。アラブ人スンナ派の25%、クルド人スンナ派の20%が続く。キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。
[編集] イスラム教シーア派
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者(イマーム)が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。
[編集] イスラム教スンナ派
スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。
8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年)は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。
バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年)は、合理主義を標榜したムータジラ学派に属していたが、後に離れる。ムータジラ派がよくしていたカラーム(弁証)をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。
ガザーリー(Al-Ghazali、1058年-1111年)は、ペルシア人であったがバクダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。
イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(al-Hasan al-Basri、642年-728年)が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムータジラ派を開く。ムータジラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義(スーフィズム)につながっていった。
[編集] ヤズィード
ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。
[編集] キリスト教
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。4割強が東方諸教会に属する[要出典]。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会(ネストリウス派)に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。
[編集] マンダ教(サービア教)
マンダ教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。
[編集] ユダヤ教
ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。
[編集] 食文化
詳細は「イラク料理」を参照
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。
[編集] イスラム美術
「イスラーム美術」も参照
細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。
[編集] 音楽
伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、バイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。
ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部(イラク)にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー(あるいはズィリヤーブとも云う)によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器である ことが多い(正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最高音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。
カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。
また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム(マカーム・アル=イラーキ� ��)と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。
民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。
現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。
[編集] 世界遺産
イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバクダードの北西290kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ(ニーナワー県)が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール(サラーフッディーン県)がやはり文化遺産に認定されている。
アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。
アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世(前1813年-前1781年在位)は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に� �びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。
アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。
[編集] 祝祭日
フセイン政権下の祝祭日を示した。
[編集] スポーツ
イラクではフセイン政権時代前はバスケットボールイラク代表やサッカーイラク代表などが国際試合を行っており、特にサッカーはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にウダイ・サッダーム・フセインがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによる拷問により多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、1994 FIFAワールドカップアジア最終予選で日本と引き分けの試合を演じ、日本がワールドカップ初出場の夢を打ち砕いた「ドーハの悲劇」が挙げられる。やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もアジアカップ2007で初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。
[編集] 参考文献
- 池澤夏樹ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年 (ISBN 4334973779)
- 大塚和夫ほか(編)『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011)
- 佐藤次高(編)『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809)
- 日本イスラム協会ほか(監修)『新イスラム事典』平凡社、2002年 (ISBN 4582126332)
- 酒井啓子、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961)
- 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786
- チャールズ・トリップ 『イラクの歴史』 大野元裕・岩永尚子・大野美紀・大野元己・根津俊太郎・保苅俊行、明石書店〈世界歴史叢書〉、2004年。ISBN 978-4-7503-1841-7。
- Robert B. Clarke, PEOPLES OF THE EARTH, Vol.17 Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973
- Worldmark Encyclopedia of the Nations, Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891)
- Demographic Yearbook, United Nations, 1990.
- Statistical Yearbook, United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002.
- The Oud 英エクセター大学のDavid ParfittのWebページ
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