2007/11/12 掲載
インターネットという新しいネットワークの将来を見通していた民間研究者
公開鍵暗号は、民間のどちらかというとアウトロー研究者だったマーティン・ヘルマンと、ホイットフィールド・ディフィー、それにラルフ・マークルによって発明された。人類が暗号を使い出してからずっと続いた暗号の常識が、この3人によってくつがえされたのだが、その引き金となったのが、人類が始めようとしていた新しいタイプのコミュニケーションだった。それは電子的な通信手段によって、面識のない相手とものを売り買いしたり、情報交換しあったりするというものだった。魅力的だが、ちょっと考えれば非常に危険な行為であることは明らかだった。インターネットがまだARPAネットと呼ばれていた頃、そのような未来を鮮明に予想していた人たちがいた。その人たちは、電子的なネットワークの威力を正しく評価し� �いた。そしてそのような世界ではまったく新しい暗号システムが必要になることも・・
彼らは明確な目標を持っていた
公開鍵暗号を発明した3人はいずれも、来るべきネットワーク時代で、お互いに顔を合わすことなく見ず知らずの相手と安全な通信を行うにはどうしたらいいのか、という明確な目標を持っていた。逆に、その当時暗号世界を牛耳っていた人たちにとっては、外交や軍事面でのあくまで組織内部での通信しか考えていなかったので、どこの誰とも知れない相手と暗号通信をするなどという発想はばかげたたわごとにすぎなかっただろうし、そんなことは思いつきもしなかっただろう。そして、当然の結果として新しいコミュニケーションを見据えていた3人が、新しい暗号を発明した。この項ではマーティン・ヘルマンの立場から見てみたい。
ニュース馬は道を落ち
生粋のニューヨーカー
マーティン・ヘルマンは1945年に米国のニューヨーク市ブロンクスで生まれた。ユダヤ系移民の家族だった。小さい頃から科学が好きで、探究心旺盛な子どもだったらしい。高校は地元のブロンクス科学高校に入学した。高校時代はアマチュア無線に熱中していて、地元のニューヨーク大学に入ると、当然のことのように電気工学を専攻した。1966年にニューヨーク大学を卒業し、スタンフォード大学大学院に進んだ。1967年に電気工学で修士号を、1969年に博士号を取得した。ヘルマンは、1968年から1969年にかけてIBMワトソン研究所で働いた。わずかな期間だったが、この経歴が後にヘルマンの人生を大きく変えることになる。ヘルマンはこの頃、暗号研究家のデビッド・カーンの講演を聞き、暗号に初めて興味をもったらしい。うまいぐあ� ��に金星暗号を開発したホルスト・ファイステルが同じワトソン研究所にいた。ヘルマンはファイステルとときどきランチを一緒にして、教わりながら少しずつ暗号の知識を習得していった。
NSAの誘いをはねつけた
ヘルマンは1969年からMITの電気工学助教授を務めた後、すぐに1971年から母校のスタンフォード大学に移り、電気工学の助教授になった。この間、ヘルマンが暗号の研究者であることを聞きつけた国家安全保障局(NSA)の役人がNSAで働かないかと誘いを掛けてきたらしい。ヘルマンは、NSAと契約するとその後一切自由な発言、発表ができなくなることを考え、誘いをはねつけた。実際、NSAと契約して国家安全保障上の理由から何も研究発表できなくなってしまった研究者が何人もいたらしいのだ。
「「僕はひとりぼっちで研究していた」ヘルマンは打ち明ける。「『こんなことで本当に報われるんだろうか』と思っていた。なにか結果が出せるのか心底不安になっていたんだ」」
「暗号化」より
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誘いをけったことはヘルマンにとってその後孤独な研究を強いられるつらい選択だったが、ディフィーとの出会いがそれを解消してくれたのだった。
ディフィーとの出会い
1974年に見ず知らずの何ものかも分からないディフィーと名乗る男から、すぐに会いたいと電話があった。何でもニューヨークからここカリフォルニアまで大陸を横断してまで会いたいということなのだ。しかたなく、30分だけなら、ということで会ってみることにした。
「三〇分の予定は一時間に延び、二時間になり、さらに話は続いた」
「暗号化」より
実はディフィーも新しい暗号を追い続けていて、一緒に話のできる研究者をずっと探していたのだった。そんな折、IBMワトソン研究所を訪ねたとき、ひょんなことからヘルマンの名前を聞き出し、すぐに飛んできたというわけなのだ。ふたりは、お互いに捜し求めていた相手であることを悟り、共同研究を始めることにしたのだった。
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ディフィー、ヘルマンの鍵交換構想
ヘルマンとディフィーが共同研究を始めてまもなく、ディフィーのアイデアによって公開鍵暗号の実現可能性がはっきりと示された。鍵を2つに分け、一方を公開し、もう一方を秘密にすることで、暗号化だけでなく相互認証(デジタル署名)と否認防止という機能を持つ公開鍵暗号の骨格ができあがったのだ。それは一方向性落とし戸関数の非対称性を利用したものだった。このコンセプトは「マルチユーザー暗号技術」としてディフィーとヘルマンによってまとめられた。ただこのときは具体的な案ではなくあくまでも実現可能性の指摘だった。
それから1年、今度はヘルマンが、具体的な実現手順を考案したのだ。これはディフィー・ヘルマンの鍵交換システムとしてまとめられた。このアイデアには、後から共同研究に加わったラルフ・マークルの発想が非常に助けになった。ディフィーとヘルマン、そしてマークルは1976年に開かれた全米コンピュータ会議でこの鍵交換システムを発表した。
ボブとアリスとイブ
暗号の説明をするときには、ボブとアリスとイブという3人が登場することがお約束になっている。これは、ディフィー、ヘルマンが公開鍵のシステムを説明するときにたまたま用いた例だったが、それが定着したものらしい。ボブとアリスが通信し、イブがそれを盗聴しようとしている、という設定だ。
ヘルマンの考えた鍵交換方式によると、ボブとアリスはイブにしられてもよい2つの数字を相談してきめ、それと個々に別々に秘密の数を決める。この3つの数からあらかじめ決められた計算を行うと、暗号化された数ができる。この計算式と計算結果の数はイブに知られてもかまわないので、それをお互いに送りあって入手する。そして、お互いに相手から得た計算結果と、自分の秘密の数を再度決められた計算式に代入すると、なんと二人は同じ答えを得るという仕掛けだ。この同じ答えが暗号化の鍵となるわけだ。
言葉で書くと、非常に込み入ったプロセスになっているが、結果的に2人はイブが盗み聞きしている状況でも、安全に共通の暗号鍵を得ることに成功している。この仕組みを支えているのが、簡単な計算でも、逆算するのはほとんど不可能という一方向性関数で、このときのヘルマンの案では指数関数の剰余を求める式が使われた。このヘルマンの案は、実用的にはまだまだだったが、少なくとも通信したい相手と、第三者に知られてもかまわない情報だけをやり取りして、秘密の鍵を共有するという方法を示したことになり、これは暗号界の常識を破る革命的なことだったのだ。
次の局面へ
1976年6月にヘルマン、ディフィー、マークルの「暗号技術の新たな方向性」という論文が発表されると、何人かの数学者の注目を引き、公開鍵暗号の歩みは新たな局面に入ることになる。
参考文献および関連書籍の紹介
「暗号化」 | スティーブン・レビー著 斉藤隆央訳 | 紀伊国屋書店 | 2002年2月 | 2500円 |
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「暗号解読」 | サイモン・シン著 青木薫訳 | 新潮社 | 2001年7月 | 2600円 |
ディフィーとヘルマンの記念碑的論文 | ||||
「暗号戦争」 | 吉田一彦著 | 小学館 | 1998年8月 | 1600円 |
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