2012年5月4日金曜日

エタノールと移民(2006年秋 アメリカとメキシコ) /YCASTER 2.0:伊藤洋一公式サイト


<エタノールと移民ー国境の北と南で-Cyberchat>

 2007年1月1日の午後10時からNHKBS1で放送された「地球特派員スペシャル」の為に、2006年11月の下旬にアメリカの中西部とメキシコのアメリカ国境沿いを取材しました。

 取材のコンセプトは、いろいろな指標で見た世界地図の歪みを手がかりに、経済の成長という大きな枠組みの中で「競争と格差」という問題を抱える今の世界を「4人の特派員」が各地を取材し、のちにスタジオで討論するというもの。4人とは、私と榊原英資、姜尚中、江川紹子各氏。それぞれの地域を受け持ち、私はアメリカとメキシコ。

 アメリカには4年間いましたし、メキシコにも行ったことがありますが、今回の取材はいずれも両国のこれまで見たことがない地域が対象で、私としても非常に勉強になった。アイオワ州のトウモロコシ畑の中を走り、そしてエタノール工場を見学し、GMの経営者よりもよほど勉強家、革新家のアメリカの農家の経営者(この表現が正しいと思います)を取材し、取引所を見て、そしてメキシコサイドから危険を承知でアメリカへの密入国をトライする人々を取材し、といった形。

 「エタノール」は2006年の一般教書演説でブッシュが石油依存症のアメリカがエネルギーの自立性確保を目的に具体的に名前を挙げたことから急激に注目された産業だが、アメリカでは主にトウモロコシから生産する。ブラジルはサトウキビからの生産。エタノールはあらゆる植物(草も可能)から作れ、例えば日本では米からの生産も可能。実際にするかどうかは別にして。

 のちの文章にも書きましたが、いろいろ面白いことが起きている。例えばアイオワ州はこれまでアメリカでもっともトウモロコシを他州や海外に輸出(?)してきた州ですが、今は州内に次々とエタノール工場が出来て州内消費するために、「今後は他の州から輸入(?)しなければならなくなるとか、トウモロコシに対する燃料としての、また食糧としての需要が増えたこと、加えてエタノール工場の増加によって需要が高まったことによりアイオワ州の農家が所有する農地の価格が過去10年で10倍に上昇した、と言ったこと。

 アメリカの自動車産業の苦境は言うまでもありませんが、その行く先(工場の移転先)の一つはメキシコ。しかし工場がアメリカから移ってきているメキシコでは依然として職場不足と低賃金がはびこっていて、聞けばびっくりするほどの数の不法移民希望者が徒歩での国境越えを試み、その三分の一がそれに成功する現実。三分の二は連れ戻されてもまたそれを試みる。

 ブッシュ大統領はその波を止めようとするが、しかし一方のアメリカには「移民は必要」と、犯罪を起こさない一定期間きちんと働いた人には居住権を与えようと言う動きがある。つまり北と南の両方で、民を北に移動させる圧力が存在するという動かし難い現実。

 そういう現実を目に出来た事は非常に鮮明な記憶として残った。移民が必要なアメリカの産業は、農業(農場の農作業に従事)、建設業(現場労働者)、各種サービス業など。なにせアメリカではメキシコの10倍の労働賃金がもらえる。そしてメキシコには、アメリカの一稼ぎして家を建てた連中が各村に何人となく居る。成功体験が転がっている限り、貧しいメキシコの人々は北を目指す。中南米の人々も、メキシコを経由してアメリカを目指す。

 アメリカとメキシコの国境に実際に行きました。下に写真があるので、見て頂きたいのですが、国境がない日本の人間としては考えさせることが多かった。番組は何回も再放送されていますので、見て頂ければ良いと思います。私のところにはDVDもあります。

 以下は、私が取材中に残した文章です。day by day から採録しました。


2006年11月18日(土曜日)

 (24:27)ホントにびっくりしました。皆で食事を済ませて打ち合わせをし、ちょっと一寝入りした後に目を覚ましたら突然ケイタイ電話が。当地夜の12時ちょっと過ぎの日曜日に入ったところ。誰だろうと思って電話を取ったら番号が非表示。聞こえてきたのはインド英語で、パトナのラマヌジャン数学アカデミーの経営者であるアマンド・クマールさんでした。

 彼とは六月にインドで別れたきりでしたが、今回電話してきたのは彼が日本に来るとかいう話ではなくて、「あの時のビデオに出ていたIT会社の社長の名前はなんていったっけ」と。顔は直ぐに思い出しましたが、名前が思い出せなくて「調べてメールする」と返事。彼とは一度メールを交換していますから、メーラーで「kumar」で検索すれば分かる。

 まもなく思い出して、「ビピン・トヤギ」さんでした。ははは、彼とは6月にインドから帰ってきて直ぐに林さんやドヴァルさんと一緒に東京で西麻布のアイスバーで時間を過ごしたことを思い出した。ちょっとした偶然です。

 ところで、飛行機の中のアナウンスメントから分かっていたことですが、デトロイトやその周辺は東京から来た私にとっては寒い。到着時が摂氏7度。しかし、ここに既に数日活動してきた4人の方々にとっては、「今日は風もないし暖かい」そうで、こちとら「そうですか」と言うしかない。夜は寒そう。

 うーん、アメリカの中西部に来たのは90年代の終わりに来たシカゴ以来です。確かあのときは冬ではなかった。デトロイトの空港で見かけた右下の写真は、下に広告主として「フォード」と出ていますが、一つアメリカが目指している道(road)です。

It is not just a interstate
It is a road to the future.
 と書いてある。「interstate」というのは州際ということで、アメリカの主要道路を指しますが、それが「未来への道」でもあるというのはどういうことか。

 それは「E・85」がエタノール85%の割合でガソリンと混ぜ合わせた「エタノール燃料」を指すからです。今年のブッシュの年頭教書の中にアメリカのエナジー・セービング施策の大きな柱として名前が挙がったのは「エタノール燃料」。下にトウモロコシの絵が見えるのは、アメリカではエタノールをトウモロコシから取っていることを示している。もう一つのエタノール大国であるブラジルはそれを主にサトウキビから作る。

 ひょんなところからデトロイトの空港で知り合ったバイオ関連の博士号を持つ内ヶ崎さんによると、「エタノールは植物だったらなにからでも出来る」そうで、お米からも出来るそうです。アメリカは草からエタノールを作り出す研究もしているという。まあでも日本で「米からエタノールを作る」とはなかなか言えないでしょうな。一番効率が良いのはサトウキビだそうです。

 この「E・85」はアメリカで注目されているのですが、問題がある。それは10月にニューヨークにいたときに自動車アナリストから聞いたのですが、全米のスタンドの約0.4%でしか扱っていないこと。このアナリスト(ニューヨーク在住)が「E・85」を入れようとしたら、ワシントンDCまでいかないと行けないというのです。だから実用化はまだずっと先。

 夕食はホテルでしましたが、リスク分散思考から5人で皆が違うものを頼んで、それを小皿をもらって少しずつ分配して一挙に5食分トライしようと。そうすれば、それぞれの何か好きなものがあるだろうと。

 当然予想したが、相変わらず量が多い。そして我々の周りを歩いているアメリカ人を見ると、凄く太い。だからウェートレスの女性に敢えて、「いつも思うのだが、食事の量が多すぎると思うのだが、アメリカの人達はこれを全部食べるのか?」と聞いたのです。

 そしたら彼女曰く、「私も多いと思う。でも皆が期待するからこうなった。でも食べきれないから、結構な人が家に持ち帰るんです.....」と。そりゃそうだろう。そうした方がいい。しかしそれでもやはり食べるから、男性も女性もすごくおなかが太く大きい人が多い。

 見ているとアメリカ人の食べ方も悪い。私の飛行機の隣に座ったアメリカ人はデトロイト在住と言っていましたが、見ていたらサラダをほとんど食べない。そして出てきた肉はきれに食べていた。私は逆でしたね。ブッシュが国境に建設しているフェンスについてどう思うかと聞いたら、「That is not a good idea.」と言って、「それをメキシコの教育費に回したら良い」と。まあでもそれも迂遠な話です。

 私を入れて5人。なかなかの強者揃いです。夕食の時「どんな取材経験があるか」で盛り上がった。初日にして既にハプニングもあり、これからが楽しみ。目的はここに項目で示したようなことですかね。


2006年11月19日(日曜日)

 (23:27)宿泊していたミシガン州ランシングからアイオワ州のデモインに移動してきています。日本から見るとあまり違わないように思えるが、時差が一時間ある。ちょっと戸惑いますね。そのたびに時計を戻したり、進ませたり。面倒なので、PCの時計は日本時間のままです。しかしケイタイの時間は目覚ましに使う関係があるから、ほっておけない。

 それにしてもアメリカは広い。トウモロコシ畑の中を走ったのですが、前も後ろも道がまっすぐ延びているだけ。本当にまっすぐなのです。ニューヨークの近郊はこういうことはなかった。もう収穫は終わって土が掘り起こされた土地が延々と続く。こんなにゆっくりとアメリカの農村地帯を見たのは初めてだと思う。

 アメリカの新聞は面白い。地方色がメチャ強いのです。デトロイトとかランシングに行くと開けば自動車の記事が山のように載っている。デモインでは一面トップの中央がトウモロコシの絵ですからね。この新聞をもって一軒の農家を訪ねましたが、面白かった。そこに近所のおじちゃんも遊びに来ていて、最近のアメリカのトウモロコシ農家の実情を聞きました。

 私が驚いたのは、アメリカの都市における住宅価格の上昇や、一方でのその沈静化が一般的に言われている。しかし私の感覚ではニューヨークなどでは住宅価格、土地価格の上昇はまだ続いているし、アイオワの農家に聞いたらトウモロコシ価格の上昇に歩調を合わせるようにここの農地も過去10年で2倍になったという。コンピューターでシカゴの相場を見ながら自分の収穫分の売り時を考える農家の人々。

 日本は米で先物相場を禁じていますからそういう光景はないのですが、世界で一番最初に商品相場の市場を持ったのは日本。大阪の堂島です。それを考えると、ちょっと日本の伝統がアメリカで今イキイキと生きている感じがする。


2006年11月20日(月曜日)


ここで、サムアダムスは彼の人生の大きなイベントの間でしたか?

 (23:27)夜からシカゴに入りましたが、今までで一番寒い。ニューヨークも寒いそうですが、まあアメリカも Thanksgiving Day が近づけば自然ですかね。

 それにしても、今朝のウォール・ストリート・ジャーナルに「Visitors decry U.S. entry process」と。全くその通り。実に煩雑で、最後に「Have a nice trip」と一言声を掛けてくれるが、それ以前の飛行場での搭乗手続きは面倒です。この煩雑さもあって、アメリカを訪れる外国人(カナダ、メキシコを除く)の数は、2000年のピーク時に比べると17%も減少しているという。

 特に、アメリカのドメスティック・フライト(国内路線)に乗るときにチケットの右下に「SSS」と記されていたら、もう諦めなければならない。厳しいセキュリティ・チェックが待っているのです。「SSS」になったら、なるべく荷物は預け荷物にして、機内持ち込みは最小限に。

 なにをするかというと、我々の場合は以下のように処理された。

  1. まずチケットとパスポートと取り上げられて、荷物とジャケット、コートを預け、靴も脱ぐことを要求される。ブレスレットと時計、ベルトも取ることを求められる
  2. 次に並んでデトロイトの空港では「爆発物検知器」(smiths)に入ることを求められる。これはITルームに入るときにエアを当てられるような印象のする一種のゲートのようなマシンで、時々周りから空気が当てられる。デトロイト空港のセキュリティに聞いたら一年くらい前に導入されたと言っている
  3. そこを通過したら今度は、手荷物検査になる。鞄の中を含めて全てを検出対象とする。黒い検知器(先に)をようなものを取り出して一つ一つのものを取り出すと言うより、特定の反応を見ている印象
  4. それらをすべてクリアして、やっと出て行って良いと言われる
 全行程は20分以上。アメリカの国内航空に乗るときは、少し早めに行かないと予定していたフライトに乗れなくなる。短期間で各地を回る人間にはちょっと耐え難い。

 それは置くとして、今日一番強く思ったことは、「約30年間も同じ問題を解決してこなかったアメリカの自動車業界よりも、アメリカの農家の経営者一人一人の方がよほど経営理念に優れ、自分達が置かれている環境に敏感であり、革新的である」ということである。

 デモインの近くのエイムスの農家の方々に会ったのです。近くに出来たエタノール工場に投資している人達に。もちろん、トウモロコシも生産していて、それを工場に売っている人もいる。彼等の言葉は、最新の経営をしている経営者のように刺激的で面白かった。

  1. 我々は日々新しいと思っている。我々はお互いにでも競争している
  2. 大学に行き、金融を学び、テクノロジーを勉強して、自分たちが置かれている環境をいつもチェックして、それに対応している。コープでも勉強会をしている。そうしないと変化する環境で生き残っていけない
  3. 農産物をエタノールにしていることには、一つの変化だと考えている。トウモロコシはエタノールを生産した後は飼料として使われる。今まで一つの役割しかしていなかった穀物が、二つの役割を果たしているという意味では、そもそも食料を燃料(エタノール)に使っていることに複雑な感情はない
 実にはきはきしている。頼るべきは自分の農家経営にあっては、「誰かに頼る」ということもないから、自然と自立心が育まれ、今という時代の情報を自分で集める気力があるのだろう。凄く印象に残った取材先でしたよ。


2006年11月21日(火曜日)

 (19:27)去年までのブルーの日本のイリュミネーションに慣れた目には、シカゴのミシガン・アベニューの今年のイリュミネーションの黄色は、ある意味で新鮮でした。特に見た瞬間は。今年の六本木の色は何色かまだ知りませんが、赤プリは今年もブルー基調だった。

 「Nordstrom」というホテルの近くのデパート(一緒に入っていたのがコンラッドでした)からウェスティン・ホテルまでミシガン・アベニューを少し時間をかけてイリュミネーションを楽しみながら歩きましたが、街は完全にクリスマス・シーズン入り。

 なにせ、店でかかっている音楽もクリスマス・ソング。夜7時過ぎても人並みは切れずに、シカゴは一段と安全になったのだな、と思いました。人々が着ているものも綺麗だし、何よりも車が綺麗になった。まあこれはアメリカ全体に言えることですが。

 Nordstromに入ったのは、ホテルの近くだったという以上にニューヨークにはなかったと思えるデパートだからです。ミシガン・アベニュー沿いにはサックス・フィフスやメーシーズがありましたが、わざわざシカゴにまで来てニューヨークの代表的デパートに入ることはない。

 それに関係するのですが、今回シカゴの街を歩きながら、「これはある意味で面白くないことだ」と思いました。つまり、世界中の大都市が一緒になっていまいつつある。ニューヨークのデパートがシカゴに来ているだけなら分かる。問題は、コーチ、ベネトン、グッチ、ルイ・ビトン、ブルガリ、ゼグノ.......などブランド・ショップです。

 中に入っても、何ら銀座や青山のそれらと比べて変わっていない。それは商品の配置は変わっているが、売っているものはシカゴだろうと、ニューヨークだろうと、東京だろうとあまり変わっていない(ように見える)。多分上海でも、北京でも、そしてニューデリーでもそうだし、ベンガルールでもそうです。ロンドン、パリ、ベルリンも、そしてモスクワも。

 つまりこうです。「世界中の都市は、その景観と売っているものにおいて、特徴を失いつつある」。それぞれの都市とそこに住む人には、ブルガリも、ゼグノも、そしてルイ・ビトンも必要なのかもしれない。しかし、各地を歩く人間にとっては同じような店が世界中の大きな都市にあるのは重複のように見える。シカゴは確かにビルも道幅も大きいが、マンハッタンのアベニュー・オブ・アメリカスとそれほど違いがあるわけではない。一方通行と両面通行の違い程度。

 これは来年早々に日経新聞さんから出すインドの本にも書いたことなのですが、途上国を含めて世界の都市が同一化の方向を走る中で、その国の個性とは田舎に、そして農村に宿ってくるのではないか、ということです。今は都市へ、都市へと人々の意識は流れている。しかし、世界中で同じブランド・ショップを見せられる我々はたまったものではない。

 道も世界中で高速道路を走るよりは、地方のローカル道路を走った方が面白い。なぜなら変化があるからです。世界中の高速道路は面白くない。このままだと、世界中の都市は「ハイライズのビルの乱立の中で、同じようなブランド・ショップが巣くう人の多い地帯」に成り下がる危険性がある。そう思いました。

 だから恐らく、世界各国の豊かさの差は、農村の豊かさの差になって顕現化するはずです。アメリカはその点では間違いなく豊かです。GMの経営者よりも進取の精神と柔軟性に富む、そもそも独立心の旺盛な農民がいる。無論集約化の波は来ていますが、そこで生き残った連中はなかなか強者です。

 日中は、特に午前中にハイライトが。今度CMEと合体するCBOTに行って、オープン・アウトクライ方式の取引をフロアに降りて開始前30分から開始後40ほどまで、約1時間10分も見せてもらいました。これは今日一番面白かった。

 まあよう言ったものです。「オープン・アウトクライ」とは。体育館のようなところで、それぞれの取引ブース(トウモロコシ、大豆などなどアグリ中心のフロアでした)に人が集まり、大声で叫んでいる。アグリの他にはCBOTには金利、為替などのファイナンシャルのフロアがある。

 そのフロアにカメラ共々おろしてもらいました。でかい連中が大声で叫んでいる。主にトウモロコシのオプション、トウモロコシのフューチャーズ、それにエタノールのフューチャーズを中心に見ましたが、実に活発な取引が行われている。いずれ絵になるでしょうから、楽しみ。

 CBOTに来たのはこれが二回目でしたが、最初は見学者フロアから見ただけ。今回は取引フロアに降ろしてもらいましたから迫力が違った。良い経験になりました。


2006年11月21日(火曜日)

 (24:27) うーん、やっぱりアメリカはサービス産業が凄い、と思いました。ホテルの近くのスーパーに買い物に行ったのです。ちょっとしたものを。そしたらスーパーには結構人がいるのに、レジ係が二人ぐらいしか居ない。8レーンくらいあるのに。物を買った連中が勝手にレジを通過して行っている。

 どうしているのかと見ていたら、買い物客は自ら買った商品をバーコード・リーダーの上を通し、それが終わったらレジに備え付けられているクレジット・カード・リーダーにカードを通し、出てきた紙にサインして出て行っている。多分バーコード・リーダーを通さない商品があれば、警告が鳴るようになっているのでしょう。

 もっと驚いたのは、右の写真に示した「Pay With Your Finger」です。写真の通り、右手の人差し指を指紋リーダーにかざして認証を得ると出て行く方式。その場合でもまず買った商品をバーコードに全部通すのだと思います。ということは、一端自分の右手の人差し指をその系列のスーパーで登録すると、右の人差し指一本で買い物が出来る、ということになる。代金はアメリカですから小切手か、それか銀行引き落とし。

 このシステムはまだ新たに始まったばかりのようで、そのための宣伝も始まったばかりの印象がした。かつ、実際に右手の人差し指で買い物をしている客はいなかったように思う。まだこれからでしょう。しかし、ナイスな試みだと思いました。まだレジの前で長い列を作っている人も居ましたが、これは新幹線の切符を買うのにまだ長い列を作っている普通の日本の人々を考えれば良い。隣のマシンでカードでいくらでも素早くチケットゲットが出来るのに。最初は抵抗感があるものです。

 一つ面白かったのは、デトロイトでもスーパーの中に「Sushi bar」が出来ていること。まあシカゴはそれはそれは大きな、そして横に太い人が多い国ですから、「日本食は、そしてその代表選手である寿司は体によい」となれば、それをスーパーでも買いたいと思う人は多いのでしょう。


なぜジョン·ハワードは、京都議定書に反している

 売れ行きを見たら、結構なものでした。実際に買っている人は居ませんでしたが、残っているものを見ても、すっごく長く残っていたという印象はしない。チーズとかそういうコーナーに互して寿司がコーナーになっているのだから、それは人気があるのでしょう。

 火曜日の夜の食事会は、なかなか面白かった。カメラさん、音声さんなどがいるので、業界話になって、「こういう言葉を知っているか」という披露大会になった。私が知らなかったものを記します。

  1. やおや
  2. せっしゅ
  3. わらう
  4. ピーカン
  5. えんかい
  6. 満充
  「やおや」というのは、例えば本を撮影するときなど、寝かせていた状態から少し傾げることを言うのだそうです。値札の感じですかね。

 「せっしゅ」というのは、日本の昔の俳優で「せっしゅう」という名前の人が居たそうですが(わたしにはすっと顔が浮かばない)、その人は背が低かった。で、そのひとはいつも踏み台の上で仕事をしたそうです。アメリカだと、アラン・ラッド(これも知らない)という人らしい。つまり、背の低い方を他の人と並べる作業を「せっしゅうする」と言っていた。それが今はつづまって「せっしゅ」に。から、「せっしゅする」に。

 「わらう」は「どかす」を意味するらしい。これは誰も語源を知らなかった。「ピーカン」は、雲一つなく晴れている状態を言う。ま、意味は通じる。「えんかい」が面白い。カメラマンにとってしばしば邪魔なのは、照明の足なんだそうです。足を扱うのは「照明部」(今も映画会社にはあるそうです)。その「照明部」は宴会をやると必ず足を出すことから、「えんかい」とは「足が出て居るぞ」ということらしい。

 最後は「満充」。うーん、渋谷の女性達がこれを使い出したら、私は笑う。文字通り、満たし充満させることを指す。「うーんこのケイタイは満充になった」といった。カメラは普通は電池で動く。そのカメラのバッテリーを充分充電することが「満充」だと。皆、二人の高橋さんから教わりました。

 この「満充」は、もちろんいくらATOKでも一発では出てこない。


2006年11月22日(水曜日)

 (24:27)空から見て、「汚いな......」と。空気のことです。 メキシコ市の上を明らかにスモッグと思われる空気の層が覆っている。メキシコ市は盆地で、70年代の後半に来たときから「公害」が言われていた。今もその状態が続いていると言うことです。

 見覚えがあるのですが、北から来ると富士山のように綺麗に見える山がある。それが冠雪していて、かなり綺麗ですが、空港に近づくに従ってそれが八ヶ岳ではないが、分かれているのが分かる。空気が綺麗だったらもっと山々も綺麗に見えたはずなのに。「今はまだましで、風がなくなる年明けから2月が酷い」という。

 席の隣に日本の若い男女が。聞いたらシカゴのノース・ウエスタン大学に企業から留学していて、MBAの取得中だとか。二人ともそうだと思ったら、ご夫婦で奥さんは付いてきていると。カンクンで4泊5日のバケーションと言っていました。そう言えば、アメリカは23日から民族大移動。感謝祭はアメリカ人にとって一年で一番大きな祭日。日本もお休み。

 メキシコ市は乗り換えだけで、その日にエルモジージョに。ここは初めてです。アメリカとの国境に近い。車であと3時間の場所。今度は熱い。シカゴの摂氏ゼロ度近い寒さから一転して、夕方5時過ぎでも30度近い場所に。しかしメキシコがいいのは、食事がうまい点にある。肉も、海のものも抜群です。しかも安い。

 食事の時に「もっとないか」とプレッシャーをかけたら、出てきました。

 昨日紹介したのは

  1. やおや
  2. せっしゅ
  3. わらう
  4. ピーカン
  5. えんかい
  6. 満充
 でしたが、今日は
  1. なぐり
  2. ばみる
 を。「なぐり」とは「金槌」のことを言うのだそうです。「ちょっと、なぐりを貸して.....」みたいに。金槌は殴りますから。「ばみる」は、「位置取りを決める」という意味だそうです。俳優などが立ち位置を決める、そうするとカメラの動きも決まってくる。「ばみってくれなきゃ、困るじゃない」ってな感じ。

 昨日紹介した業界用語に関しては、多くの方からメールを頂きました。堀江さんと内藤さんからは「せっしゅう」について。お二人によると、「せっしゅう」はハリウッドで日本人役で活躍した早川雪州だそうです。

 堀江さんは、『古い俳優のことです。背が低いため台に載せて他の俳優とフレームにうまく収まるようにしたことから来ているようです。「下駄を履かせる」ということです』として、内藤さんは『「戦場に架ける橋」(第2次世界大戦の時、ビルマのジャングルに英国人捕虜を強制労働させて橋を造った日本軍の中佐?が早川雪洲。映画はアカデミー賞をとり話題になりました。早川雪洲は米国で俳優として活躍していました。』と。

 アラン・ラッドについては、映画「シェーン」の主演俳優だと二人がおっしゃる。内藤さんは、「イタリア女優のソフィア・ローレンと共演し、船上でキスシーンを演じたとき、あまりにもソフィア・ローレンの背丈が高かったので、アラン・ラッドが踏み台に乗ってキスシーンを演じたのが話題になりました」とし、堀江さんは娘のシェリルラッドは、テレビシリーズのチャーリーズエンジェルの第2シーズンから出ていた女優兼歌手です」と。

 うーん、確かにニューヨークに駐在していたときにチャーリーズ・エンジェルズ(ABCテレビの人気番組だった)はよく見ていて、「シェリル・ラッド」はよく覚えている。

 また「満充」については、「30年電気屋 名無しの権兵衛」さんからは、『30余年の電池屋です."満充"とは,電池の世界で一般的に言う"満充電(電池を容量(=中味)が100%になるまで充電することをいう)"の4つ字化(four letter words)させたものでしょう』と。なるほど。

 「わらう」がなぜ「どかす」になったのか意味を調べていたら、ネットでこのページにぶち当たりました。しかしここには、「えんかい」とか「満充」などがない。せっかくだから、彼等が思い出す限り掲載していきます。


2006年11月23日(木曜日)

 (24:27)エルモシージョは、メキシコ北西部、北はカリフォルニア州に接するソノラ州の州都であり、人口は80万人。どんどん増えていて、もうすぐ「100万人になる」という大きな都市です。 地図で見て、左に1時間走るとカリフォルニア湾。海が近いと言うことは、海産物がうまい。魚介スープなんて最高でした。メキシコは全体的にあのアメリカに比べると、食事のレベルが段違いに高い。

 この右側の写真では分からないのですが、街全体が岩山に囲まれている。その一つのテレビ塔が林立している岩山の途中まで上っていったのですが、「この岩山はどうして出来たのだろう」と思うほど急峻で、平地に溶岩が吹き出たのかなと思わせる。火山岩が直ぐに顔を出しているのです。そして、そこにはなんて書いてあるか知らないがグラフィティーが一杯。

 街の周辺を走ると「この街は発展している」と直ぐに分かる。道が整備され、工場団地が造成され、そこにフォードの組み立て工場が建設され、さらに部品工場が集まって「フォード村」が出来ている。

 その周りを走ると、ソリアーナというメキシコ北部で力をつけつつあるスーパーマーケットが・センデロ店(sendero)という大きな店舗を作っていた。中に入ってみたのですがそれはそれは広い。商品が堆く積まれていて、その間を大勢の人が歩いている。聞いたら、その日が開店セールだったそうで、そう言われるとアイスクリーム屋などはまだ素材調達が出来ていないのか開店できていない。店員は寄り集まってぺちゃくちゃ喋っていましたが。

 そこを、大きい人、小さい人が入り交じったちょっと「ああ、これがメキシコの人達」という感じの人達が、買い物をしている、というか見学している。その近くにはまた、民間デベロッパーが開発したであろう新興住宅街が広がっている。かなり大きい。この住宅街に移り住んだ人々を狙って、大型スーパーが出来たという印象。

 その新興住宅街に誰が移り住んでいるのか、というとフォード村の人達というのが当たっているようです。工場が出来れば人が集まり、店舗が出来て、そして住宅ができる。ちゃんと回転している。それが、メキシコ・ソナラ州の州都であるエルモシージョ。

 対して、工場閉鎖になっているアメリカのミシガン州では、一部の閉鎖された工場から人が居なくなり、その周りの商店が寂れ、そして地域の住宅に空き家が増え、そして人口も減るという寂しさ。実に対照的な姿であった。

 ところでこれまで集まった以下の業界用語に加えて新たにいくつか。

  1. やおや
  2. せっしゅ
  3. わらう
  4. ピーカン
  5. えんかい
  6. 満充
 でしたが、今日は
  1. なぐり
  2. ばみる
 今年の6月インドをご一緒した林さんから
 業界用語ですが、マージャン用語が意外と使われています。

 例えば「だまてん」。意味はいろいろな局面で使われるのでこういうことですとは言いにくいのですが、マージャンと同じような感じです。例えば、ノーアポで撮影するとか、あまり良くないのですが無許可で撮影するなどというときに「だまてん」という言葉を使っています。業界用語としては、あまりいい言葉ではないかもしれませんね。そのほか、取材にイーハンつけるとかなど業界にはマージャンの好きな先輩が多かったのでしょう。

 ははは、「だまてん」ね。でもマージャンでもそうですが、充分高い手の時はわざわざ「リーチ」とは宣言しない。こちらの手を見せるようなものですから。分かるような気がする。しかし最近は慶賀すべき事ですが、各方面の権利意識が強くなって、なかなか「だめてん」は難しい。

 「取材にイーハンつける」とね。何を付けるのでしょうか。ひと味、それとも.....


2006年11月24日(金曜日)


スグリは、キャンプを下回る

 (24:27)エルモシージョから車で3時間あまり北上したアメリカとの国境の町ノガレス(アメリカサイドにも同名の街がある)では、実に大勢の人に会いました。アメリカサイドから見ての「不法移民」、またはその予備軍や、それらの人々を救助したり、支援する人々。

 メキシコの南部のベラクルス州で自動車整備工をしていたものの、この州で発生した政情不安で約半年間も商売あがったりになって2000ペソ(2万円ちょっと)をもってこの街に1000ペソ以上をかけてバスで来て国境を突破。しかし、アメリカ領に50キロ入ったものの捕まってメキシコに送り返されながら、「機会があったらあと数日の内にもう一度トライしたい」と言い切った35歳のホセアンヘル・スワレス。

 たまたまこの男性と同じ州出身で、故郷では他の家の家事手伝いをしていた子供一人の女性で、国境を越えたもののやはり捕まって子供ともども送還され、「もうあんな危険な事はしたくない。故郷の家族と連絡が取れてお金を送ってもらったら戻りたい」と言っていたシクラリオ・オリバレス(34)。この二人はともに最終目的地をニューヨークと言った。

 国境を越えて1キロ入ったところでアメリカの国境警備に見つかって、ジャーマン・シェパードを放たれて命からがらメキシコ領に戻ってきた3人の青年。この3人の顔は事態がついさっき起こったことを如実に示すように、また犬に追われた恐怖感をついさっき味わったことを物語るように引きつっていて、かつ汗びっしょりだった。ちょっと小太りの青年の服には枯れ草が一杯こびりついていた。地面を転がるように逃げてきたのだろう。

 3人はノガレスから130キロほど南に離れたエルモシージョとノガレスを結ぶ街道沿いの街サンタアナ(我々も通過した)出身で、最終学歴である中学の同級生で、今は20~21歳。彼等は前回のアメリカ不法入国(国境線を不法に越える形での)は成功してアメリカ国内で建設業に携わっていたものの、6ヶ月働いたところで他の15人と一緒に見つかって強制送還され、「またトライしようと思って」と今回は失敗。しかし「明日か、またあさってかにトライする」と明言。最終的にはツーソン(国境から来るまで約1時間)か、それより「もっと深い(北の)アメリカへ」と。

 国境付近のメキシコサイドを「最近歩いていなかったから」と言って歩いていた中年の男性。こちらの問いかけにアメリカのパスポートを見せたものの、そのパスポートは紙の質から言って明らかに偽造パスポートで、夕方国境地帯を歩いていたことから、多くの不法移民がそうするように「夜でのトライ」を画策していると思えたかなり頭の毛が薄くなりかけた男性。

 これらの人々に出会えたのは、メキシコとアメリカなどの国境地帯で正規ルート(ビザとパスポートを取って)で渡るのではなく、不法に渡ろうとして失敗してアメリカの国境警備隊にメキシコに連れ戻された人々、それにやっとノガレスまで到着したものの、その過程で有り金を取られ、到着しただけで途方に暮れている人などを助ける政府組織であるグループBETAの人々と約5時間に渡って行動をもとにしたため。

 彼等との出会いは大きかった。彼等のオレンジの車に乗せてもらって、不法移民が国境の有刺鉄線をまたいでの、または潜っての渡米によく使う場所まで連れて行ってもらった。酷い山道の先の山の上だったが、まさに現場に行けたという意味では迫力のある工程だった。当たりにはつい最近越境を試みたメキシコの人々がもっていたであろうボトル、着るもの、それに毛布が散乱していた。グループBETAの事務所は写真の通りで、ソノラ州では現在全部で14人が働いている。この事務所にいたのは、3人である。

 不法にアメリカに渡ろうとする人々はどういう連中か。話を聞いていて、やはり「アメリカに豊かさを求めて」いる人が多かった。犬に追われた3人の青年の話では、彼等はアメリカに不法入国していた6ヶ月の間に建設業に携わり、週に500ドル以上もらっていたという。月にして2000ドル、円にすれば23万円ほどだ。これはメキシコでの同じ仕事を軽く10倍を超えるお金だという。「労働賃金10倍」の誘惑。これは強い。しかも国境の高いところで見ると、すぐそこだ。

 自動車修理工のスワレスは、メキシコでは週に1200ペソから1500ペソ(120ドルから150ドルの収入で、月収は5000ペソから6000ペソで、ドルにして500ドルから600ドル、円にして6~7万。子供連れのオリバレスは月500ペソの収入だったという。つまり6000円。どういう経緯で子供が生まれたかは聞けなかったが、「子供を育てるにはつらい手取りだ」と言っていた。それも越境を試みた一因だろう。「ニューヨークに誰かいるのか」と聞いたら、特には居ないが、メキシコの人はたくさんいると答えた。アメリカとメキシコの賃金格差は圧倒的に違うのだ。

 「加えて」とグループBETAの事務所の所長であるエンリケ・パラフォックス氏(38歳、しかももう孫がいると言っていた)は、「一つの要因は夢だ。アメリカに行きたいという人々は皆夢を持っている。アメリカに対する。我々はそれが現実とは違うと説得するが、アメリカにいる親戚や友達、メキシコ人の間で広がるアメリカに対する夢の方が大きい。それに誘われて彼等は不法侵入を試みる」と言う。このアメリカへの、または自国以外への夢は、豊かになった日本人だって持っている。しかしメキシコ人にとってみればより大きいのだろう。

 不法入国を試みる人達は、危険を承知していた。彼等は多くのケースに置いて、不法に移民を試みる際に強盗にあったり(越境を試みる人はお金をもっていると思われる)、「アメリカに連れて行ってやる」と甘い誘いをかけた移民組織(コヨーテ、ポジェロなど)に騙されたり、暴行されたり、女性だったら乱暴されたり、そしてなによりもアメリカに入ったら場合によっては警備隊に発砲されることも知っている。つまり危険だということを知っている。それでも行くのである。なぜか。それは、実際にアメリカへの不法入国を試みたメキシコ人の三分の一は成功しているという説があるからだ。だったら自分もと思う。

 グループBETAの人達に深い山のてっぺんの国境線に連れて行ってもらって分かったことは、国境を越えることはいとも簡単だということだ。写真の通りで車での突入を阻止する目的で(車を使えば、アメリカに入った後素早く逃げられてしまい、警備隊でも対処できないから)鉄道線路を使って頑丈に作られてはいるが、高さは1メートル程度で地面から3本ほどさびかかった有刺鉄線が張られているだけ。上を越えることも可能だし、有刺鉄線の間を抜けることも可能だ。実際に私は体を入れてみた。いとも簡単に抜けられた。つまり、メキシコからアメリカへの越境自体は、場所を選べば実に簡単なのだ。問題は越境した後、国境警備隊につかまらずにいかにアメリカの都市や、不法移民を欲しがる農場にたどり着くかであ� �。ここには危険が一杯。二日険しい岩だらけの山道を歩いて50キロアメリカに侵入しても、ホセアンヘル・スワレスのように捕まってメキシコに帰されることがある。

 捕まったスワレスはその時の様子を、「私は最初だったこともあってか、アメリカの警備隊の対応は10本の指の指紋をとられたくらいで、丁寧でした」と。グループBETAは越境してアメリカの警備隊と遭遇したときの対応として、

  1. 大きな声を出すな
  2. 拳銃を持っていると思われるな(手を下にやるな)
  3. 抵抗するな
 などを指導しているという。複数回越境を繰り返しているような連中はアメリカで長く監獄に据え置かれることもあるが、そうでない場合はバスに乗せられて国境まで連れ戻されてメキシコに引き渡されるという。つまり越境は簡単に出来る、その後も例え捕まったことを考えても常に身体に危害を加えられるとか、命を奪われることはないと言うことだ。危険だが、ある意味で安全でもある。ここでは日常だ。だから多くの人が越境からアメリカへの溶け込みを試みる。

 しかし、時にはアメリカの国境警備隊も一人で20人ほどの移民に取り囲まれるときもあり、警備隊の方が恐怖に駆られるなどの事情もあって、越境から逃亡のプロセスが「危険との隣り合わせ」という事態は変わらないという。それでも彼等はアメリカに入りたいのである。繰り返すが、彼等の周りにアメリカへの不法入国に成功し、お金を貯めて故郷に家を建てたような人が一杯いるからだ。つまり成功体験が身近にある。誘惑には抗しがたい。

 アメリカへの不法入国を試みる人々(メキシコ人、中南米の人々)は男性が70%、女性が25%、子供が5%という。年齢層では19歳から35歳までが圧倒的に多く、学歴は一般的に低いようだ。彼等の越境必需品は冬だったら毛布、コヨーテなどの動物から身を守るニンニク、水など。夏だったら、塩分の入った点滴水なども。しかし時には走らねばならないので、越境してからはなるべく身軽になる努力をするという。3人の青年などお金を含めて全く何ももっていなかった。「あそこに見える村に行けば友達が居る」と国境の向こうのアメリカの村を指さした。

 BETAの人は、彼等がチョウチョと呼ぶ場所に我々を連れて行ってくれた。そこには毛布が何枚も放置され、ボトルが散乱し、残されていたものから「ついさっきまで人がいた」という状況。「夕刻にこういう場所に来て寝て、夜になって越境して逃げるのだ」とパラフォックスは言う。

 アメリカ側もそういう事態は知っていて、どこからとなく監視していて、2000キロもある国境を使っての越境そのものを阻止するのではなく、入った奴をどうとっつかまえるのかを考案しているという。その為に、赤外線を使い、カメラを使い、衛星を使い、犬を放ち、加えてかなりの近代兵器を使っているという。むろん、カメラも見回しただけでいくつも見えた。だから、アメリカサイドはメキシコサイドの動きをグループBETAの動きとともにかなり知っている可能性が強いという。


 グループBETAの活動は、アメリカサイドも不法侵入者の死亡事故を防ぐ目的などで認知しているという。しかし形グループBETAの活動は、メキシコの一政府機関が不法越境を支援しているように見えるが、この点に関してパラフォックスは、「私たちは幇助はしていない。彼等はメキシコにいる間は何ら罪を犯したわけではない。罪を犯したわけではない人が、山の中で倒れたりしていたら助け、故郷に帰るのを助けるのは当然だ」と述べた。しかし、故郷に帰らず、二度、三度と越境を試みる人が多いのも確かなのである。

 どのくらいの人がメキシコからアメリカへの不法な越境を試みるのかに関しては統計はない。なぜなら、捕まるのは失敗者で、成功者はそのままアメリカ社会に消える。しかし、少なくとも毎日数千人、多ければ数万人と言われる。つまり一大産業なのだ。そこには暗躍する業者がいる。かつてはコヨーテという組織があり、今では麻薬もあつかうポジェロがある。彼等は時に不法入国者をアメリカに届け、時に不法入国者を襲って金品を遅い、時に越境を希望する女性を乱暴する。また、自分たちが手引きしない越境者に対して強盗を働く。ノガレスの街には、事情を知っている人間だったら「あれだ」と分かる連中がたむろしている。彼等はメキシコ南部、中南米など出身地別にそれぞれの出身地の人を手引きするべく、時には故郷� ��いるときから応募者を集め、時にはノガレスで客を集める。

 全体に言えることは、失敗への恐怖はあるものの、罪の意識はないし、実際に所得水準が違い、知り合いもたくさん行ってお金を稼いで故郷に家などを建てているのを見ると、別に殺されるわけではなく送還されるだけだと考えれば、「何度でもトライする」というのが当たっている。しかし彼等の顔を見れば、明らかに緊張感が漂っており、「良いことをしている」という認識ではない。うしろめたさも多少はあるし、恐怖感もある。

 アメリカサイドの需要も見逃せない。安い労働力が欲しいという現実があるからだ。きれい事を言っても、南部の農場にはメキシコからの不法移民が必要だし、アメリカ各地の建設現場もそうだし、ニューヨークのタクシー運転手にも必要だ。だからアメリカの議会には、「一定程度の期間、模範的な市民でありつづけた人間については、市民権を与えるべきだ」という意見が強いし、多くのアメリカ人は「我々だって移民だったのだから」と好意的な姿勢を示す。その一方で、犯罪や社会の安定が崩れることを懸念する人々もいる。多くの予備軍や失敗者の話を聞いていると、何らかの形で彼等の不法入国を待ちかまえている、期待している人々がアメリカサイドにいる。

 ブッシュが大きな壁を作ったらどうか。これに関しては、「多少越境がきつくなる」という見方もあるが、「ほとんど変わらないだろう」という意見が強かった。それはトンネルを掘ったり、アメリカサイドの当局者を抱き込んだ大がかりな組織的な動きをしてみたりという形で、アメリカサイドにも移民を欲しい現実があるから。つまり国境の両側に需要があるわけで、壁を作れば解決するという問題ではない。そこのこの問題の深さがある。


2006年11月25日(土曜日)

 (24:27)ノガレスを午前中に去って、エルモジージョから再びメキシコ市に。どえらく「無駄っ飛び」の多い移動。だってメキシコ市はミシガン州から見ても、墨米の国境からもはるかに南。目的地はアメリカとメキシコの国境に近いところだったので、本当はメキシコ市を行きも帰りも経由する必要はなかった。

 しかしちょうどアメリカが感謝祭の人口大移動期に当たったこともあったし、またタイム的によい飛行路を確保できなかったので、結果的にこういう移動になった。ま、良いこともあるもので、メキシコ市では私が28年前に同市を訪れたときに非常に繁昌してたサントリーさんでキッチンを預かっていたという神田の生まれの江戸っ子の方に会えた。元気で「富士」という店を切り盛りしていらっした。階段を上がりに上がったところが炉端焼風のカウンターに。

 メキシコ市は夜について早朝に去るために、当時と比べてどういう状況かは分からないと思う。当時は歩くところ歩くところに、物貰いが一杯居たように覚えている。またゆっくり来たい街である。アメリカと比べてメキシコについて感じたことは

  1. 大事なことなので真っ先に書くが、食事が美味しい。肉は北米全体が同じだと思えたのであまり褒めないが、メキシコは魚介類が実にうまい。ラテンの血が入っている彼等には、魚介の料理のこつが分かっているように思えた。特にエルモシージョの二カ所の店で食べた「魚介スープ」は、新宿の三笠会館(ここの魚介スープは逸品だった)がなくなった今では、私には秀逸に思えた

     

  2. メキシコは確かに全体レベルとしてはアメリカより賃金水準は低いが、だからと言って物価も安いので、普通の賃金をもらっている人々には特に暮らしにくいと言うことはないように見える。しかし、賃金格差(アメリカ10、メキシコ1の感じ)は、「より豊かになりたい」「アメリカで夢を見たい」という人々を大量に生んでおり、これが人々をアメリカへとかき立てている

     

  3. メキシコの人々は陽気である。フォードの自動車工場の中でも、どこでも我々が行くと手を振ってくれる。道で会えば、ブエノス.....と。特にメキシコ市の土曜日の夜は凄かった。金曜日も人々は盛り上がっている。しかし陽気だけで終わっているわけではない。日々の生活にも困っている人の割合はアメリカよりもよほど多いだろうし、一定期間アメリカに行って働けば、メキシコでは家が建つ現実も厳然としてある

     

  4. 全体的な印象は、ブッシュ大統領が今進めているような政策を続けてどのような壁を作ろうとも、メキシコサイドの人々に国境の北に行きたい事情があり、国境の北のアメリカには南のメキシコからくる働き手を欲しい現実がある限り、いかなる人為的手段もこの人の流れを止めることは出来ないだろう。今でも不法組織が不法移民を食い物にしている現実があるのに、これを弾圧すればもっと闇に入り込むかもしれない

     

  5. メキシコをアメリカ並みに豊かにすれば良いとか、メキシコの人々を教育すれば良いというのは正論である。しかしそれは相当先の話のように思えた。メキシコが豊かになっても、アメリカを目指す不法移民は中南米、アジアを含めて数限りなくいる。だから、アメリカの政界も国境の一部に壁を作って政治的ポーズを取って不法移民対策をしていることを国民に示しながらも、結局はメキシコ(およびその他の国)からの移民をある程度許す方向に舵を着るのではないか
 ということだ。ジャーマン・シェパードに追われても、「また明日トライする」という3人の若者、南の州から来てノガレスの近くからアメリカに50キロ入ったものの警備隊に捕まって戻されたものの、「あと数日中にもう一回」と言っていたスワレス。スワレスは12人で越境し、アメリカ国内に入ってからちりながら逃げたと言い、「何人かは成功しているかも」と。

 そういう成功例が彼等の周りにある限り、浸透圧のようにメキシコからアメリカに抜けたい圧力は、アメリカへの人の流れを止めはしないだろう。


2006年11月26日(日曜日)

 (19:27)早朝にメキシコ市を発ってロスに行き、そのままノースウエストで成田へ。メキシコ市からロスへの機中では、メキシコを含めて世界6カ国、10カ所近くに自動車部品工場を展開しているという一部上場の会社の社長さんと隣り合わせになって、いろいろ話が出来て面白かった。スタンバイの熱心のファンだそうで、「いつも7時から20分聞いています」と。

 展開している工場は、メキシコを初めカナダ、アメリカ、中国、インド、タイなどで、さらにインドにもう一つ、あとは東欧を考えていると。二人で意見が一致したのは、「自動車産業はまだまだ30年くらいは伸びる」という点。中国で、そしてインドで需要が生まれている。これは止められない、と。

 その上でこの社長さんが言ったことが面白かった。「戦線が伸びますから、うちでも各地でマネージャーを見付けるのが大変なんです。工場マネージャー不足です。うちでこうなんだから、トヨタさんは大変でしょうね」と。そういえば、私の従妹は自動車会社に勤めているのですが、その手の話がいろいろあると言っていました。

 さらにもう一つこの社長さんが言っていたことで面白かったのは、日本の自動車技術は結構いろいろなところに流出している、という点。日本の半導体技術が、週末出稼ぎ(リストラの渦中にあった日本の半導体技術者が90年代に週末を利用して韓国でアルバイトをしていたと言われる問題)のように、自動車業界でも日本の団塊の世代の技術者の流出によって韓国を含めていろいろなところに技術が流れている、というのです。

 私は検証する手段を持ちませんが、「そういうこともあるかな」という印象。「ヒュンダイ(現代)が強くなったのは、そういう事情もある」とこの社長さん。半導体もそうでしたから。とすれば、日本という国は企業も国も何よりも大事な人という財産の生かし方が下手だなと思いました。零戦闘機は優秀だったが、パイロットを守るシステムが充分ではなく、それで優秀なパイロットを大勢失ったと聞いたことがある。

 半導体でも自動車でも、今まで会社を支えてきた社員が海外に行って働かなくてはならないシステムしかないとしたら、残念なことです。それは逆を言えば、団塊の世代がもっている様々な技術なり、ノウハウはまだまだ使えるべきだし、国内で生かす方法を考えた方が良いということでしょう。
 ――――――――――
 もう一つその社長さんと話したのは、北米対立の自動車市場の多様性です。メキシコもそうですが、物流はほとんど車で行われていると思われる。高速道路を走っていると、本当に多くの種類の車に出ある。日本ではとんと見かけたことがない大きなトラック(日本では見なくなった前が出っ張っている奴です)、SUVやCUV(SUVより小型の乗用車ベースのユーティリティーカー)、それに実に数多くのピックアップトラック。

 車種は日本の市場よりもはるかに多様であり、それらが私が70年代に見たような「傷だらけ」の形で走っているのではなく、皆綺麗に、そして整然と走っている姿は、「アメリカが実に大きな自動車市場であること」を実感する。中国もインドも国土は大きい。アメリカのような大きな市場に育つのかどうか。その時に、日本の自動車メーカーの地位はどうなっているのか。
ycaster2007/01/20)



These are our most popular posts:

エタノールと移民(2006年秋 アメリカとメキシコ) /YCASTER 2.0:伊藤 ...

私の飛行機の隣に座ったアメリカ人はデトロイト在住と言っていましたが、見ていたら サラダをほとんど食べない。 ... 日本は米で先物相場を禁じていますからそういう光景は ないのですが、世界で一番最初に商品相場の市場を持ったのは日本。 ... そうしないと 変化する環境で生き残っていけない; 農産物をエタノールにしていることには、一つの 変化だと考えている。 ..... しかし、時にはアメリカの国境警備隊も一人で20人ほどの 移民に取り囲まれるときもあり、警備隊の方が恐怖に駆られるなどの事情もあって、 越境から逃亡の ... read more

初期の米国

現在の米国にあたる地域で、初めて墳丘(マウンド)を作ったアメリカ先住民は、アデナン 族と呼ばれる。 .... 英国からの最初の移民が、現在の米国に向かって大西洋を渡ったの は、繁栄するスペインの植民地がメキシコ、西インド諸島、および南米に確立 ... など 原産の作物の栽培を教えてくれた親切なインディアンの助けがなければ、入植者たちは 生き残ることができなかったかもしれない。 ..... その結果、英国人入植者がロング アイランドとマンハッタンで、オランダ領地を侵食し始めたときに、人気のない総督は、 防衛のために ... read more

グロジンスキー

2005年6月7日 ... 昨年パレスチナを訪問した折、同行メンバーにデヴィという若いユダヤ系アメリカ人の 舞台女優がいました。デヴィは反シオニストですが、そのお父さんはホロコーストの 生き残りで、いったんはイスラエルに移民したけれど後にアメリカに移ったのだそうです。 もともと彼は .... なぜならこの場所こそが、万が一恐ろしい事態が起こったときに彼らの 頼みの綱になるのですから。 ... わたしは危機の時代におけるユダヤ人とシオニストの 関係に興味を持ち、戦後のドイツで生き残ったユダヤ人に焦点をあてました。 read more

プリマス植民地 - Wikipedia

ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会は これら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町 ... アメリカに到着したときに 、ピルグリムはその負債を支払うために働き始めた ..... 最初のお祭りは恐らく1621年10 月早くに開催され、生き残ったピルグリム51名とマサソイトの一党90名と共に祝われた。 read more

0 件のコメント:

コメントを投稿