アボリジニ(Aborigine)は、狩猟採集生活を営んでいたオーストラリア大陸と周辺島嶼の先住民。
"aborigine"とは、英語において日本語の原住民に当たる言葉であったが[1]、先住民という概念が広がるにつれオーストラリア先住民という意味合いで使われることが多くなった。本稿でもその意味で用いる。「アボリジニ」に差別的な響きが強いため、現在では「アボリジナル」または「オーストラリア先住民」という表現も一般化しつつある。
[編集] 起源
アボリジニの先祖がオーストラリア大陸に上陸した時期は、遺物などの分析から5万年ないし12万年以上前(議論中で定まらない)とされているが、それ以降にも段階的に人的流入もあった模様。外部地域と隔絶されたのは、遺伝子の研究によりそれ程古くはないことが明らかになってきているほか、その祖先の系譜が解明されつつある。かつては形質人類学的にも不明確な部分が多く、骨格的特長から南インド系とする説や、スンダランド経由で渡来したとする説、またはアフリカから等々、諸説入り乱れていた時代があったが、現在では南インド系とする説が有力である。なおオーストラリア大陸は1万8千年前の最も近年の氷期においてユーラシア大陸と飛び石のように連なる島々により、現在よりも遥かに渡りやすい地域(これをサ� �ル大陸とも呼ぶ)だったとも考えられている(国家としてのオーストラリア参照)。
オーストラリアは不毛の大陸とされ、農耕に適した種類の食物となる植物がユーラシア、南北アメリカ、アフリカと比べ遥かに少なく、家畜に適した固有の動物も一切存在せず(アボリジニはユーラシア大陸から原始的なイヌのみを導入し、家畜としていた。この原始的なイヌの子孫が現在のディンゴである)、また極度の乾燥地帯で、気候の変動も一年周期とは限らず不規則であるなど、他に類をみない過酷な条件が揃う大陸でもあり、文化的に孤立を余儀なくした。 その地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したとされる。一括りにアボリジニといっても、多数の部族から成立っており、言語的な調査から26~28程の系統に分類されているが、相互の文化的差異は多い。今日ではオーストラリア到着以後も、一部の集団ではポリネシア人やパプア人、オーストロネシア人との部分的混血が見られる。
[編集] 生活史
生活は洞窟等を住居とし、一定範囲を巡回しながら食料を得る採取狩猟型で、ブーメランや毒物を利用した狩猟を行い、オーストラリア固有の植物の実を取ったり、乾燥した地面を掘って木の根等を食べる大型のイモムシの一種を焼いて食べるといった生活をしていた。これらの食文化はブッシュ・タッカーと呼ばれ、1970年代からはシドニーのレストランでも応用メニューの提供が始まり、オーストラリア陸軍のSASRにもノウハウが取り入れられている。
ナイアガラの滝シャットダウン
[編集] 文化
[編集] 美術
主な宗教には自然崇拝が挙げられるが、遺構の中には人物画であると推察されるが解釈不能な壁画が残るなど、不明確な部分が多い。彼等に特有の素朴な美術様式をアボリジナル・アートと呼ぶが、元より様々な部族が混在し、言語的にも多様であった民族に共通化された美術様式がある訳ではなく、中には余所で発見された遺構の美術様式を見た現地人が、独自に真似てみて「アボリジナル・アート」と称しているケースもある。
[編集] 音楽
約1500~2000年前(成立は2~3万年前とする説もあるがディジュリドゥの分布を見ても伝統的に使われる地域の古くからある歌には伴奏が付かない事からもまずありえないだろう)には存在していたと考えられている世界最古の管楽器ディジュリドゥ(長さ1~1.5m)を使用した独自の音楽文化を持っている。
この楽器は、シロアリによって中空になった木を利用して作られる。美しく装飾された物も多い。この楽器は、唇の振動を管内で反響させ、独特の低音を発生させる。この低音には霊的効果があると考えられており、呪術医が治療に利用する事もある。乳児の夜泣きには、重低音などによる振動が成長に伴う痛みを緩和する効果があるという民間療法も存在するので、その類型である可能性もある。この楽器は古く男性のみに使用が許された。
これらの楽器を一括りにした「ディジュリドゥ」という呼び方は、白人であるHerbert Basedowという人物によって1926年に付けられたもので、演奏中の音色が「ディジュリドゥ~、ディジュリドゥ~」と聞こえたことにちなむ。先住民族たちは各々の部族ごとに固有の、それぞれの名で呼んでいた模様である[2]。
[編集] その他の文化
「スキンネーム」と呼ばれる一定の範囲内で共通の名前を、本来の名前とは別に持っている。これは近親婚を避ける意図で用いられていたようであり、日本の姓に相当するが、数種類程度しか存在しない。
飲酒文化は元々無かったが、後に白人が持ち込んだ酒に興味を覚え、これに耽溺する人も出て社会問題となっている(詳細は後述)。ガソリンを吸引し酩酊を楽しむペトロールスニッフィングも同様に社会問題になっている[3][4]。
[編集] 人種
アボリジニは人種的にはオーストラロイドに分類される。すなわち、黒人(ネグロイド)とも黄色人種(モンゴロイド)とも白人(コーカソイド)とも異なる人種としての認識が定着していると言える。 体毛は濃く、肌の色は「黒人」と同様に極めて濃色である。また、ひじょうに特徴的であるが女性や子どもの髪の色が肌の色とは対照的に金髪をしている事がよく見受けられる。 親知らずがきちんと生えるという特徴を持つ[5][6]。
[編集] 白豪主義とアボリジニの悲劇
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた[7]。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。
不況時代の写真ブルーリッジ山脈
しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている[8]。
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000~7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した[9]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという[10]。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた[11]。
また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。
これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった[12]。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した[13]。
特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。
19世紀の末には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種)として分類されるようになる。
1920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた[14]。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。当時の白人には、世界の他の地域に居住する白人に較べて犯罪率が高く、勤勉性に欠ける傾向がみられる、という報告も存在する。
ポリ枝が落ちる
また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)[15]を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは"S tolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている。尚、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、未だにわかっていない。
無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいたほどである。
一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。
その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である[16]。
[編集] 現在のアボリジニ
現在でも、白豪主義の影響は地方に根強く、アボリジニを含む有色人種への差別事件が時折発生しており、社会問題となっている。また、現在では、白人やアジア人との混血が進んでいて「純粋なアボリジニ」と言える人は少ない。親子・兄弟・親戚で容姿が大きく異なる場合も珍しくない。
飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール耐性が極めて低い。特にアルコール分解酵素がまったく無いか極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすい。他の先住民族問題においてもアルコール依存症は深刻な社会現象だが、特にアボリジニ居住区にアルコール飲料を持ち込む行為はオーストラリアの法律で禁止されており、持ち込んだ場合には罰金が科せられる。
その一方、長らく広大な平原で暮らしていた事から閉所恐怖症を患う人も多く、治療のために伝統的生活に回帰する人も見られる。
1993年には先住権が認められ、元々のアボリジニ居住地域の所有権が認められている。今日ではアボリジニの大半が都市部に住んでいるが、政府から支給された住宅に住みながら、一定の伝統的生活を嗜む人もいる。白人主流社会に同化し仕事を持つ一方で、伝統舞踊に興じる人もおり、今日では伝統と欧米文明の双方を独自に組み合わせた生活をする人が大半である。
しかし、政府から支給された公的扶助を糧に堕落した生活に陥るという、他の少数民族同様の社会問題も見られる。また、白人との経済格差を解消するため、大学進学における優遇などの差別是正措置も講じられている。このような特典を得るため、実際にはアボリジニでないものが、アボリジニを詐称することも多く、問題となっている。また、逆差別であるという白人側の不満も根強い。
[編集] 先住民に公式謝罪
ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。同日の議会には約100人の先住民らが傍聴する中で、同首相は「Sorry」の語を3度使い謝罪した。議事堂の外には全国から詰めかけた数千人がテレビを通じて謝罪の言葉を聞いた。この謝罪は、昨年11月の総選挙でラッド率いる労働党の公約を実現したものであった。とは言いつつも、ラッド首相も賠償については行わないことを公言した。また、保守・右派の国民党や自由党は、「過去を蒸し返すだけ」と公式謝罪に反対し、ラッド首相の謝罪演説中、抗議のため議会から退席した。
オーストラリア・クイーンズランド州生まれの陸上競技選手。400mを専門とした選手である。
2000年9月25日に、シドニー五輪で金メダルを獲得した後のトラック一周の際に、アボリジニの旗とオーストラリアの国旗の2つで身を包んだが、これが当時のオーストラリアで議論を呼んだ。
現在では、中学生の英語の教科書などにも紹介されている。
[編集] アボリジニを題材とした作品
- 文芸
- ブルース・チャトウィン 『ソングライン』 芹沢真理子訳、めるくまーる、1994年/北田絵里子訳、石川直樹解説、英治出版、2009年 - オーストラリア全土に広がるアボリジニのソングライン(歌の道)をたどる旅行記。
- 映画
- The Last Wave - アボリジニを題材としたSF映画。
- 裸足の1500マイル - (2002年 オーストラリア) - 「盗まれた子供達」の実話を元にした映画。
[編集] 出典・参考文献
- ^ 例として、台湾原住民はTaiwanese aboriginesと呼ばれている
- ^ [1]
- ^ Rainbow from Down Under: もうひとつのオパール。。。
- ^ BBC NEWS | Asia-Pacific | Aborigine petrol-sniffing 'rises'
- ^ 親知らずが生えてきた?
- ^ いちご歯科クリニック
- ^ 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
- ^ 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』
- ^ 「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年
- ^ 「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年、p42
- ^ 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』
- ^ 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
- ^ 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80。「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年、p42
- ^ 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
- ^ 出典: 新保満 著 『悲しきブーメラン』
- ^ 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
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