フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英: Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。ローズベルト、ローズヴェルトとも表記[1]。民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)。知日家であり、米西戦争の義勇騎兵隊で活躍した第26代大統領セオドア・ルーズベルトは従兄に当たる。
在任中に世界恐慌、大日本帝国海軍の真珠湾への奇襲攻撃によって第二次世界大戦への参戦を経験し、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。ルーズベルトのニューディール政策はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。その一方、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中国に対しては日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた中国びいきと言われ、その行き過ぎによって失敗した所もある。
ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は二選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条)、正式に大統領は2期までと定められた。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。
アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。
ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民 主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。
また、大戦中に日系人にのみ強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた失政は、その立場を問わず大きな批判の対象となっただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。この民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越される事となる。
[編集] 生い立ちと家族
フランクリン・ルーズベルトは1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト(1828年 - 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家[2]は1650年頃にオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。
18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。[3]
フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano 1854 - 1941)は、フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり[4]、デラノ一族は阿片戦争以来の中国貿易で財をなしていた[5]。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[6]
この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904年にハーバード大学、1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。
1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年の聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供をもうけ、4番目の息子エリオットはのちに作家となった[7]。
[編集] 初期の政治経歴と海軍との関係
1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、彼は民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[8]。
1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め[9]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[10]。
ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスとフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダルに関連した報道で海軍次官を辞職し[11]、副大統領候補として大統領選に出馬した。
1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事のジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党のウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[12]。
[編集] ニューヨーク州知事から大統領選まで
1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派との対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[13]。1928年大統領選でスミスは大統領候補に指名され、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。スミスは自らの地元でも共和党のフーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、ルーズベルトは知事に当選、改革派知事としてルーズベルトは多くの新しい社会計画を行った[14][15]。
こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミスは何名かの有力者によって支持されたが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストやアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者であるジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーとの個人的な関係を持ち、その支援を自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがその支持をルーズベルトに行うとし、ルーズベルトはガーナーを副大統領候補に指名した。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[16])の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中で"ニューディール"(新規まき直しの意味)の用語を使用[17]。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった[18]。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。
湖ラジオファーガスフォールズ
[編集] 大統領職
- ニューディール政策
世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA) 、公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA) 、社会保障局 (Social Security Administration)、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。しかし、失業率が下がることもなく、やがて労使双方から反発もおきるようになった。
そのようななか、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)が対立しており、またこのようなアメリカ経済再建のために日本との戦争を仕掛けたとする説もある。
なお前政権における清算主義金融政策からの脱却、管理通貨制度の確立[19](市民に金貨、金塊の保有禁止を命令)は、現在では大方の立場から有効な政策であったと認められている。
- 炉辺談話
当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。
[編集] 内閣
- 最高裁判所判事
[編集] 第二次世界大戦への参戦
1939年に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。
当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、日中戦争下にあった中華民国の蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた[20]。
当時のアメリカ政府としては、イギリスや中華民国に対し、多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込こんだイギリスが負けることは避けたかった。だが、大統領だったルーズベルトも選挙では、戦争に介入をしないと宣言をして当選しており、参争したくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。
[編集] 隔離演説から参戦まで
[編集] 隔離演説
1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューデュール阻止のために共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており[21]、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる[22]。
1937年8月30日、中国は国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると通告し、措置 を取るよう提訴した。これを受けて、同9月6日、ルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官とハル国務長官に語り[23]、1937年(昭和12年)10月5日、日本とドイツを侵略国家として非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った[24]。
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しよう としている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体 は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[25][26]
演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた[27]。なおハルの証言では、アメリカ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた[28]。
さらに翌10月6日には国務省声明を発表し、中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した[29]。 [Department of State 1943: 387-388]。
[編集] 隔離演説の反響
隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、またシカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ[30]、またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した[31]。さらにクリスチャン・センチュリー紙は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりロシアの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトはアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。
日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露'戦争'も已むを得ず」「紛争國"隔離"を提唱―米大統領演説」と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」と題した記事においてこの演説が日本を指すものとして報道した[32]。また松方幸次郎は日本駐在のユージン・ドゥーマン参事官に対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた[33]。
駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ[34]は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人問題から大衆の気を逸らせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた[35]。 なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている[36]。スターリンと親交のあったルーズベルトは、ソ連によるフィンランド、ポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。
また隔離演説は、アメリカ国民を戦争に順応させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであったともいわれる[37]。
[編集] ブリュッセル会議とパナイ号事件
中国の国連への提訴と、アメリカ大統領による隔離演説を経て、同年11月3日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催。日本側は出席を拒否した。アメリカは隔離演説で見せたような挑発的な言明は避け,会議でウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」と述べ[38]、中国を失望させた。
12月12日には、日本海軍機が米国の警備船「パナイ号」を爆沈したパナイ号事件が起きるが、アメリカはこの事件をもって開戦とはしなかった。西川秀和はその理由を「日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、 第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因がある」としている[39]。ルーズベルトはパナイ号事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなかった[40]。
詳細は「パナイ号事件」を参照
第一次世界大戦中のアメリカ人の叫びは何だったの
[編集] 対中支援工作
すでにルーズベルトは、1937年の盧溝橋事件勃発後に日中戦争で中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続けた。また自らが率先して組織させたアメリカの退役軍人を中心とした義勇軍「フライング・タイガース」や軍事顧問としてクレア・L・シェンノートを中華民国に派遣させるなどしていた。なお蒋介石は、1928年から1937年までドイツ軍事顧問団による指導を受けていた(中独合作を参照)。1939年には日米通商航海条約の廃棄を通告し、日米関係は無条約時代に入った。また蒋介石の顧問に任命されていたオーエン・ラティモアは日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう蒋介石に助言してもいる。
[編集] レンドリース法
1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。
詳細は「レンドリース法」を参照
[編集] 日米交渉から開戦まで
4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化した。しかし日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかった。当時日本の指導部は日米の国力の差を考え対米戦争に対して消極的であった [41]。
しかし、1941年7月2日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった。日本が平和目的であるとしながらも南部フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、7月25日に在アメリカの日本資産凍結を行った。しかし7月28日に進駐が実行され、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。第二次世界大戦における自陣営拡大の希望を持つドイツ[42]とイギリスは日米交渉打ち切りを外部から働きかけていた。
8月17日の野村・ルーズベルト会談において、豊田禎次郎外相は首脳会談による調整を提案したが、ルーズベルトは日本側の態度変更がない限り応じられないと回答した[43]。またハミルトン・フィッシュ(en:Hamilton Fish III)によれば、近衛首相はルーズベルト大統領との会談を希望したが、すでに対日戦を決意していたルーズベルトは会談の要請を拒絶したという[44]。また在日米国大使のジョセフ・グルーも首脳会談の開催を強く要請したが、ルーズベルト政権は「会談の必要なし」として却下している。
11月27日に日本側が最後通告と受け取ったハル・ノートが手交された。日本側は12月1日の御前会議で対米開戦を正式決定したが、12月6日にルーズベルトは昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」親電を送った[45]。しかしこの日は日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が野村吉三郎大使に渡された日だった。
1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発し、翌日(12月8日)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた(演説の冒頭で「a date which will live in infamy=屈辱の日」の表現を用いた)。上院は全会一致、下院は女性議員1人が反対したのみで、宣戦布告を認めた。その後、ルーズベルトがイギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と報告した際、チャーチルは手を叩いて喜んだ[46]。その後議会で日本軍の「卑劣な騙し討ち」を非難し、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名して日本との戦争に突入した。
[編集] 対日・対中政策
歴史家や野党の共和党議員などからは、「ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張がなされることがある(真珠湾攻撃陰謀説)。また、ルーズベルトの親族がアヘン戦争の頃から中国とアヘン貿易を手広く行っていたことから、ルーズベルト本人も中国人に対して同情的、かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言している[47]。さらに、日本の中国大陸や仏領インドシナにおける活動が、アメリカの満洲における権益や中国大陸、東南アジアへの進出に邪魔になると考え、それを排除しようとしたという説もある。
ルーズベルトの対中姿勢は理想的であったが、チャーチルとスティルウェルの対中姿勢は現実的であった。蒋介石の国民党軍が日本軍に敗北を繰り返し[48]、多くのヨーロッパ諸国やアジア諸地域が枢軸国に占領され連合国戦線から脱落しているにも関わらず[49]、ルーズベルトは中国を戦線からの脱落をさせないために軍事援助の借款や蒋介石のカイロ会談出席と台湾の返還、さらに沖縄の中国による領有を主張し(蒋介石は沖縄領有を断った)[50]、中国の常任理事国入りを強く希望し、米英ソ中が世界平和の維持する「四人の警察官構想」を抱いていた。一方チャーチルは中国国民党の腐敗と戦局を見て判断したのか[51]、中国を対日軍事拠点とする事と蒋介石のカイロ会談出席と台湾返還に反対し、さらにスターリンとともに中国の常任理事国入りにも反対した。回顧録では「(カイロ会談の時)蒋介石は権力の絶頂に立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。だが、最後の共産党に敗れたことについては残念だと思っているが…」と、チャーチルは述べている。この蒋介石は対日作戦に不熱心であるばかりか、日本との単独和平(繆斌工作)も仄めかしていたが[52]、ルーズベルトは何としてでも中国を日本と単独講和させないようにしていた[53]。この背景には日本陸軍100万人を中国大陸に釘付けさせて、中国を脱落させないためといわれている。
ルーズベルトは米英の支援を受けた中国軍が中国の日本軍を撃破して、米軍のB29機が中国から日本本土へと空襲、中国軍が朝鮮半島から日本本土に侵攻する対日戦略を想定したが、これは中国の戦力の実態を認識してないルーズベルトがテヘラン会談におけるソ連の役割をカイロ会談で中国に当てはめたようなものであまりにも無理な作戦である。しかもヨーロッパ戦線がアメリカの主要な関心事だったので、中国戦線に十分な物資を割り当てることができず、1942年の日本軍による援蒋ルート遮断により陸路が絶たれて深刻な物資不足もなり、空輸のみの輸送となった中国はハンデを持っていた。中国は列強のソ連とは軍事力も工業力も経済力も大きく隔絶していた[54]。カイロ会談で米英中は対日戦継続を宣言したが、ルーズベルトの期待に反して1944年の大陸打通作戦で中国国民党軍は日本軍に大きな打撃を受けており、あまりにもあっけなく蜘蛛の子を散らすように四散してしまい、ルーズベルトの軍事的考慮よりも政治的考慮を優先した対中政策は強硬に批判された[55]。ルーズベルトはそれを聞いたときに大変な事だと思い、日本との戦争を早く終わらせ、天皇の問題で多少の譲歩をしてでも日本を一日でも早く降伏させたいと感じた。ビルマの戦いで1942年に日本軍に遮断された援蒋ルートを1944年に復活させて、中国は辛うじて連合国に繋ぎ止められたが大陸打通作戦の大打撃を受けてしまい、アメリカ側は対日戦略をアイランド・ホッピングに変更した。
簡潔に言えばルーズベルトは中国の実力を認識してなかったため、1942年の援蒋ルート遮断により物資不足に陥り連戦連敗を繰り返している中国を日本と単独講和させず、カイロ宣言によって米英と共に日本の無条件降伏を目指すまでに対日戦争の継戦を宣言させ、前述の無理な作戦をさせたのである。ルーズベルトの対中政策はクリストファー・ソーンによると、「認識の甘い、役に立たない、無責任なものだった」という[56]。
[編集] 「人種改良論者」
駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(en:Ronald Hugh Campbell)がイギリス政府へ行った報告によると、ルーズベルトは「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」と信じていたという。「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」とキャンベルに語ったという[57]。
この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には、エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルやメキシコ、ペルーなどの中南米諸国においてヒトラーのユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容政策を推し進め、自由を束縛するとともに、財産を放棄せざるを得ない状況に追い込んだ。
[編集] 原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)
ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。
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[編集] 連合国首脳との会談
ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えた。同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中華民国の蒋介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランのテヘランに移動してソ連のヨシフ・スターリン書記長と会談。
1944年の10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した[58]。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求[59]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[60]。
翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。 会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについても話された。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[61](ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))。
ヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を早期に終結させるため、スターリンに対し、千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。その一方でスターリンの日本領土分譲要求をほぼ丸呑みする形となり、戦後の東西冷戦を招く要因を作ったとも言われる。
[編集] 勝利を目前にした死
ルーズベルトは共和党候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死亡し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。[62]
なお、この時、徹底抗戦を決意するアドルフ・ヒトラーが「ルーズベルトは今次の戦争を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」と声明を発した。
一方、日本の鈴木貫太郎内閣は敵国であったにも拘らず、戦争終結を模索する立場であり、「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れているからです。その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意を送るものであります」と同盟通信社の短波放送で、ルーズベルトの死を悼む内容の声明を発表した(ただし朝日新聞や報知新聞などの日本の新聞は「伊勢神宮を爆撃した者への神罰」などといった論調が専らであった)。
スターリンは、ルーズベルトの死をW・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使から聞かされた時、非常な衝撃を受け、大使の手をつかんでしばらく離さなかった。猜疑心の強いスターリンは彼が暗殺されたと思い込んだという。
- 1921年にポリオに罹り、その後遺症により、下半身がほとんど麻痺し日常生活には車椅子を常用していた(彼が実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったと推測する症状比較研究がある[63]。それによれば、彼の症状の8項目のうち6項目についてはギラン・バレー症候群の症状との整合性が高く、2項目についてはポリオとの整合性が高かったという。しかし彼の脳脊髄液は採取されなかったので、断定はできない)。生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木のカムフラージュのための植え替えなどを神経質なまでに指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、TV時代の現代では考えられないことだが、ルーズベルトが健康を害していることは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。
- 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられた。
- ルーズベルトの肖像は、米国の10セント銀貨に採用されている。
- ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、韓国も含む枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。またモナコで戦 後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。
- 推理小説の大ファンでもあり、ベーカー・ストリート・イレギュラーズの会員であった。また、彼自身が思いついたプロットでS・S・ヴァン=ダインらが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆したこともある。
[編集] マルチメディア
[編集] フランクリン・ルーズベルトが登場する作品
[編集] 映画
- ^ 日本では、綴りを意識して/ˈruːzəvɛlt/と長母音で発音する者もいるが、フランクリン自身は二重母音で/ˈroʊzəvəlt/と発音していた。なお、米国で発売されている辞書では、二重母音の発音になっている。
- ^ ルーズベルト家のもともとの姓はRozenvelt ローゼンヴェルト, 英語で 'field of roses'の意
- ^ ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪(この姪は後の妻・アナ・エレノア・ルーズベルトとは別人)と結婚する予定であった。
- ^ 彼女の祖先は1621年にマサチューセッツに移住したフィリップ・デ・ラ・ノイ(Philippe de Lannoy)であった。その彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった
- ^ 東久邇日記
- ^ フランクリンは後に友人に生涯、母親を恐れていたと語っている。
- ^
- アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt...母親と同名 1906年5月3日 - 1975年12月1日)
- ジェームズ・ルーズベルト(James Roosevelt 1907年12月23日 - 1991年8月13日) 海兵隊士官としてマキン奇襲などに参加。
- フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The first Franklin Delano Roosevelt Jr. 1909年3月18日 - 1909年11月1日)
- エリオット・ルーズベルト(Elliott Roosevelt 1910年9月23日 - 1990年10月27日)
- フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The second Franklin Delano Roosevelt Jr. 1914年8月17日 - 1988年8月17日)
- ジョン・アスピノール・ルーズベルト(John Aspinwall Roosevelt 1916年3月13日 - 1981年4月27日)
- 愛犬・ファーラ(他、犬を数匹飼っていた) ファーラはフランクリンの死後も、車のクラクションを聞いては主人が帰ってきたと思ったらしく、立ち上がったという。
- 愛人・ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォード(Lucy Page Mercer Rutherfurd 1891年4月26日 - 1948年7月31日) 元エノリア・ルーズベルトの個人秘書。1918年以前にフランクリン・ルーズベルトの愛人になる。フランクリン・ルーズベルトの急死時(1945年)も付き添っていて最期を看取った。
- ^ 1912年の州議会議員選挙で再選されたが、海軍次官の職を引き受けるため1913年3月17日に議員を辞職した。Smith, FDR, pp 51-98
- ^ 1914年、連邦上院議員選挙の民主党予備選挙でタマニー協会の候補ジェームズ・W・ジェラードに敗れる。
- ^ Arthur Schlesinger, The Crisis of the Old Order, 364, citing to 1920 Roosevelt Papers for speeches in Spokane, San Francisco, and Centralia. The remark was at best a politically awkward overstatement and caused some controversy in the campaign.
- ^ プロヴィデンス・ジャーナル紙とニューヨーク・タイムズ紙の報道により
- ^ "Civitans Organize Here" (PDF). The New York Times. (16 June 1922). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9A06E7DC1231EF33A25755C1A9609C946395D6CF 2009年1月21日閲覧。
- ^ "Franklin D. Roosevelt sees Davis a winner; Predicts also a Victory for Smith for Governor by a Decisive Majority," The New York Times, October 28, 1924, p. 3.また1924年および1928年民主党全国大会でルーズベルトはスミスの指名推薦演説を行っている。Morgan, pp. 267, 269-72, 286-87.
- ^ そして、フランシス・パーキンスとハリー・ホプキンスから助言を受けた。
- ^ 1930年の再選のキャンペーンでは、ルーズベルトはニューヨーク市のタマニー協会の協力を必要とした。しかしながら、共和党の対抗馬チャールズ・H・タトルは選挙の争点としてタマニー協会の不正を取り上げるが、ルーズベルトは70万票以上の差をつけてタトルに勝利、2期目を務めることとなったWhitman, Alden (1976年6月10日). "Farley, 'Jim' to Thousands, Was the Master Political Organizer and Salesman". The New York Times. p. 64
- ^ (Three R's - relief, recovery and reform.
- ^ 「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.」
- ^ Freidel, Frank. Franklin D. Roosevelt (4 vol 1952-73), the most detailed scholarly biography; ends in 1934.
- ^ 大統領令6102号
- ^ ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、ハワイやフィリピンなどの、アメリカ領土や植民地、中華民国内の租界などのアメリカの利権に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)2つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている[要出典]。
- ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ ウィリアム・ルクテンバーグ『ローズヴェルト』陸井三郎訳、紀伊國屋書店,1968年,200頁
- ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ Rosenman, Samuel I. (ed.) The Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, v.6. Russell and Russell.1969,p410. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ 中村粲の翻訳では「不幸にも世界の無秩序という病気が広がっているようだ。身体の病気が広がり出したら、社会はその健康を守るため病人を隔離するものだ」となっている。中村粲『大東亜戦争への道』展転社 (1990)
- ^ 『戦史叢書籍・支那事変陸軍作戦Ⅰ』。笠原十九司『南京事件』岩波新書,38頁
- ^ Hull, Cordell,The Memoirs of Cordell Hull, v.1, 1941,The Macmillan Company. p545. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説 、中村粲『大東亜戦争への道』展転社 (1990)
- ^ Department of State, Peace and War: United States Foreign Policy, 1931-1941. Washington: United State Government Printing Office. pp.387-388.西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ ウィリアム・ルクテンバーグ『ローズヴェルト』陸井三郎訳、紀伊國屋書店,1968年,180頁
- ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ 毎日新聞、昭和十二年十月七日、朝日新聞同日。西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ McJimsey, George (ed.) ,Documentary History of the Franklin D. Roosevelt Presidency, v.7. Bethesda, University Publications of America:2002, pp.7-8. 西川秀和前掲リンク
- ^ Hans Heinrich Dieckhoff
- ^ Rosenman, Samuel I, Working with Roosevelt. Da Capo Press. 1972,p166.西川秀和前掲リンク。
- ^ ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』PHP文庫、1992年
- ^ Ryan Halford R. ,Franklin D. Roosevelt‟s Rhetorical Presidency. 1988.New York: Greenwood Press.p.141. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ Graff, Frank Warren,Strategy of Involvement: A Diplomatic Biography of Sumner Welles. Garland Publishing.1988,p206.西川 秀和 前掲リンク
- ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
- ^ 西川秀和前掲
- ^ NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走」2011年3月6日放映。[1]
- ^ 第49回大本営政府連絡会議
- ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 8月17日の野村・ルーズベルト会談におけるアメリカ側回答の報告
- ^ ハミルトン・フィッシュ(en:Hamilton Fish III)は「非常な平和愛好者である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。彼は、戦争 を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意志があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての対独戦を行うことを決意 していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した」としている。ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』PHP文庫、1992年
- ^ [www.jacar.go.jp/nichibei/popup/pop_28.html インターネット特別展 公文書に見る日米交渉] - ルーズベルト親電画像へのリンクあり
- ^ 『チャーチル回顧』
- ^ 「ルーズベルト秘録」産経新聞社
- ^ スティルウェルは蒋介石が共産党との内戦のために兵力を温存しているのに拘わらず、ひたすら武器貸与法で得た物を横領もしくは闇市で私腹を肥やしている事に業を煮やし、スティルウェルによる中国軍の育成を蒋介石は政権への反旗の翻しを危惧したために反対し、さらにスティルウェルをワシントンに召還した。ちなみにスティルウェルの指揮したアメリカ式中国軍は戦闘力が高かった。
- ^ 連合国共同宣言で米英ソ以外で署名している国は亡命政府や枢軸国に占領されている国も含まれる。が、中国は米英ソと同様に戦争継続した。一方フランスは1940年から連合国から脱落、さらに連合国の国際的会議にも1回しか出席していない。
- ^ この時ルーズベルトは米中共同出兵による日本占領も提案したが、これも蒋介石に婉曲に断られた。
- ^ チャーチルは蒋介石を「度量が狭くてずるく、身勝手で頑固」と酷評した。
- ^ 台湾は日本の生命線! 菅首相「沖縄独立」発言で色めく中国の「琉球回復」願望永山英樹2010/06/18記事
- ^ 「Title F.D.ルーズベルトの中国政策:第2次大戦期を中心として」滝田賢治『一橋研究』(1975年12月)[2]
- ^ 第二次世界大戦時、ソ連は主要軍備の保有量と工業生産力においてナチスドイツを上回り、戦車も航空機も高性能で軍事産業が優れて、1987年までアメリカに次ぐ世界2位の経済大国であった。
- ^ 「太平洋戦争期の米中関係におけるスティルウェル事件の一解釈」[3]
- ^ 小林よしのり著書の新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論の第3巻。ちなみに作者の小林もルーズベルトを「中国に甘い幻想を抱く大統領」と述べた。
- ^ Christopher G. Thorne (1979). Allies of a kind: the United States, Britain, and the war against Japan, 1941-1945. Oxford University Press. pp. 158-159. ISBN 0195201736.
- ^ 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,30頁
- ^ 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)中公文庫、2011年、p64 - 65
- ^ 在米ソ連大使アンドレイ・グロムイコ「回顧録」(Andrei Gromyko,Memoires,1990.邦訳『グロムイコ回想録・ソ連外交秘史』 読売新聞社)、W.A.Harriman,&E.Abel,Special Envoy to Churchill and Stalin,1975.前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,31頁
- ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
- 23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
- 24ページ目「ヤルタ協定」
- ^ 墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。
- ^ What was the cause of Franklin Delano Roosevelt's paralytic illness?Journal of Medical Biography. 11 : 232-240,(2003)
[編集] 関連項目
ルーズベルトの主な政策
フランクリン・ルーズベルトの名がついたもの
[編集] 外部リンク
[編集] スピーチ
- famous quotes
- The American Presidency Project at University of California at Santa Barbara
- Public Papers of the Presidents: Franklin D. Roosevelt
- State of the Union Addresses
- 1934, 1935, 1936, 1937, 1938, 1939, 1940, 1941, 1942, 1943, 1944
- State of the Union Written Messages
- Inaugural Addresses
- Fireside Chats
- Presidential Elections
- 32 Audio/Video Clips of FDR
- Roosevelt's Secret White House Recordings via University of Virginia
- FDR - Day of Infamy video clip (2 min.)
- Audio clips of speeches
- 第1の就任演説
- 第2の就任演説
- 第3の就任演説
- 第4の就任演説
- Court "Packing" Speech March 9, 1937
- University of Virginia graduating class speech ("Stab in the Back" speech) June 10, 1940
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